伊藤忠商事・岡藤社長が転向? 本人が「変節」したのではなく、社会の変化に「適応した」のでは?

 「利益至上主義やめる 伊藤忠・岡藤氏、転向のワケ」という記事が『日経(オンライン)』に掲載されている。友人から「先生の名前が載ってます!」との知らせを受けた。渡辺記者からは今朝になって、「いまさらで誠に恐縮ですが、記事をウェブ版に掲載いたしました」と連絡があった。

 

 そういえば、ずいぶん昔に、日経の記者(渡辺さん)からインタビューを受けたことを思い出した。記事の中に出てくるエピソードは、以前に、『週刊ダイヤモンド』か『週刊ポスト』に話した内容である。目新しい記事でもない。ただし、渡辺記者が書いていた「岡藤君の変節」は気になった。 日経の記事は、(伊藤忠・岡藤氏、転向のワケ)

で読むことができる。

 「・・・小川様にお聞きした学生時代の話も盛り込んでおります」とメールの文章は続いていた。

 

 記事のポイントは、岡藤君の経営統治が8年目に入って、「短期の利益重視」から「長期的な組織力の強化」に軸足を移したことだ。それと、現在、世界的な傾向として、投資家の企業を見る視点が、ESG経営(環境、社会、ガバナンス)に向いていることと符合している。

 一昔とはちがって、世間一般からは、企業が環境(Environment)を大切にする姿勢が問われている。もはや従業員の働き方や雇用の安定など、企業活動において社会貢献(Social)を無視することができない。また、地域や調達先などステークホルダーの関与(Governance)を企業経営に取り入れることが必須になっている。

 そのように考えると、伊藤忠・岡藤氏の「変節」ではなく、社会の変化をいち早く経営に取り入れた「適応」ということになる。自然な形でのギアチェンジ。それだけのことではないのか?

 「利益額で商社のナンバーワン」は、すでに2年前に達成できている。だから、自分がいなくなったあとの10年先を考えるのが、一流の経営者というものだろう。自然な変化だと思うのだが、どうだろうか?

 

 日経の記事の内容を、前半の半分だけコピーして転載する。

 

 

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 「利益至上主義やめる 伊藤忠・岡藤氏、転向のワケ」

 

 伊藤忠商事の社長、岡藤正広氏(67)に異変が起きている。もうけることへの執着が強く、伊藤忠の業績を商社万年4位から2016年3月期に1位に押し上げた。だが今年の春、利益至上主義からの転向を宣言した。「社員や取引先が誇りに思える会社」をめざし、がん治療の無料化などに取り組む。異能の社長に何が起きたのか。

 今年5月に東京本社で開かれた決算説明会で、岡藤氏は「転向」を表明した。。

■「何があったのか」

 「これまで利益至上主義でどんどん来た。だが単に稼ぐだけでは駄目や」。今年5月に東京本社で開かれた決算説明会で、岡藤氏はこう漏らした。7月に出した社員向けのメールには「利益だけでなく、社員が健康に働き、仕事にやりがいを感じ、かつ世の中から評価される会社をつくりたい」と書いている。

 

 岡藤氏の変わりぶりを伝え聞いたライバル商社の経営幹部は「まさか」とつぶやいた。「あれほどカネもうけに執着してきた男に何があったのか」

 心変わりの象徴といえるのが、岡藤氏が進めている人事関連の取り組みだ。今年6月から毎週金曜日にカジュアルな服装を社員に推奨する「脱スーツ・デー」をはじめ、これまでは不可だったジーンズや裾の短いズボンなどを解禁した。「毎週金曜日に服装を工夫するのは新鮮な体験。働くことが従来よりも楽しくなる」(鉄鉱石ビジネスを担当する松本有希さん)と社員からは好評だ。

 現役社員で死因の9割を占めるがんについても、予防・治療対策を手厚くする。18年4月をめどに専門の検診を義務化し、高額な治療費がかかる高度先進医療も無料で受けられるようにする。「社員はより安心して働けるようになるはず」(垣見俊之・人事総務部長)

 「そばに近づくとカネの匂いがする」と社内外から評されるほどもうけにこだわる岡藤氏の気質は学生時代に原点がある。

■物産・商事「殲滅」

 高校時代に父親を亡くし、母親を故郷の大阪に残して東京大学に進学したため、生活費は自分で稼いだ。東大の同級生だった法政大経営大学院教授の小川孔輔氏は「都内の女子大で、近くに店がないという不満を聞くと、飲料メーカーにかけあって自動販売機の設置を請け負った。学生時代から商才があった」と話す。

 

 商社マンになってからは海外の衣料品ブランドの販売ビジネスで頭角を現し、担当役員を務めた繊維部門で5年連続で増益を達成。商売の面白さに目覚め、「ひとたび掲げた利益目標は達成せんとあかん」という執念の塊となった。

 10年に社長に抜てきされたが、大阪勤務が長かったため「東京本社では無名な存在。周りは敵ばかりだった」(岡藤氏)という。結果を出せば社員がついてくる――。「3位の住友商事を抜く」「非資源事業で商社ナンバーワンになる」とあえて高い目標を掲げて社員の士気を高める戦略をとった。

 伊藤忠は関西の繊維商社から生まれた。三菱商事や三井物産は、エネルギー事業で電力会社などの有力販売先を抱えるが、伊藤忠は重厚長大産業の取引先がもともと少ない。1960年代にはエネルギー分野を強化しようと石油精製会社の東亜石油に出資したが、1千億円規模の損失を出して撤退。こうした失敗を繰り返し、他社から「糸偏(いとへん)商社」とさげすまれる時代が長く続いた。

 

 *この後の記事全文は、「日経オンライン」で。