柿の木は残った

 30年前のことになる。わが家を新築した翌年の秋に、家族の誰かがどこかからもらってきた柿の実を食べて、タネを庭の隅っこみにポイと吐き出した。翌年になって芽を出した柿の木は、すくすくと成長を始めた。数年後、みごとな赤い実をつけたのだが、口にしてみると渋くて食べられない。

 
 そんなわけで、翌年からは誰もその柿の木に見向きをしなくなった。最盛期には、数百個の熟した渋柿がたわわに実った。実りの多くは、抜け目なくやってくるカラスの餌になった。焼酎に漬け込むと甘く味が変わると聞いて、渋柿の再生を試してみようと思ったこともあった。
 そのうちに、子供たちが小学校に入って、町から松の木をもらってきた。いつのころからか、梅の木が庭の隅っこで育つようになり、同じくポイ捨てされた種から自然に発芽したビワが、玄関先で実るようになった。花が咲いて実をつけた梅の一部は、市販されている南高梅と一緒に焼酎や梅干しに化けた。
 ホームセンターで買ったバラの苗が庭に持ち込まれ、広くもないわが家の庭は、夏なるとまるでジャングルの様相を呈してきた。その様子を見かねたわたしは、庭を施工してくれた造園屋さんに頼んで、庭木の剪定をお願いすることにした。
 
 件の柿の木は渋柿だと判明したこともあり、毎年6月になると造園屋のおじさんに丸坊主にされた。短く枝を刈り取られた柿の木からは、二度と花が咲いて実がなることはなかった。ところが、今年の春先になって不思議なことが起こった。
 わが家の南庭は、日当たりがすこぶるよかった。というのは、南の区画は、地主が駐車場にして近所の人に貸していたからである。30年間、家が建たないままだったが、相続の関係で、三年前にその土地が売りに出された。仲介した不動産屋が、わが家に購入しないかと話を持ち掛けてきた。
 息子たちのどちらが住みたいと希望すれば、土地を購入してもよいと思った。地価が下がって、値段も手ごろだったからである。しかし、長男夫婦は神戸の会社に勤務していて、千葉に戻ってくる可能性はない。津田沼の次男は、ここから一時間以上をかけて品川の職場に通うのを嫌がった。

 しばらくの間、南側の土地は売り手がつかなかった。二年後に、当初売り出し価格の2割引きで広告に出るようになった。それなら売れるだろうと思ったところ、ある日、玄関のチャイムが鳴った。「来月から工事が始まるので、よろしくお願いします」と、菓子折りをもった施工業者が玄関のポーチに立っていた。
 その施工業者は、南庭の境界に生えている樹木をどうするのかを相談してきた。区画が空き地だったころは伸ばし放題だったが、今度はそんなわけにもいかない。実は、空き地が広告に出た翌年の春に、植木屋さんに頼んで柿の木をすっぱりと根元から切り落としてもらっていた。柿の木は成長が早いから、放置しておくと隣家の屋根に届きそうだった。
 売却された土地には、この春から新しい家が建ち始めた。そのため、太陽が燦燦と降り注いでいたわが南庭は、お日様が陰るようになった。すると、どうしたことだろう。庭の芝生の真ん中から、小さな柿の木が2本、すくっと伸び出してきた。隣り合わせで兄弟のように地面から生えた若い柿の木は、梅雨明けには50センチほどに成長した。
 芝生の雑草が、長雨でぼうぼうになって伸びきっていた。柿の木にはかわいそうだが、見苦しくなった芝生と一緒に、二本とも根元からカットしてしまった。
 
 それから二か月が経って、南の家は外側が完成した。内装を終えて9月中旬には、新しい家族が引越してくるらしい。ピケの足場が外れると、わが家の南庭も少しは明るくなった。
 今朝方、朝顔に水をやろうとして、何気なく隣の家との境界を見た。すると、あろうことか、アジサイの根元からまたしても今度は3本、柿の木が30センチほどに伸び出しているではないか。うちの庭で何が起こっているらしい。よく思い出してみて、あることに気が付いた。
 そういえば、昨年の秋は庭の剪定が秋口にずれ込んだ。いつもの植木屋とは連絡がとれず、ホームセンターから新しい業者を紹介してもらった。植木屋が来た時は、すでに10月の末を過ぎていた。だから、わが家の柿の木には、20年ぶりに実がなった可能性がある。たぶんそうなのだろう。

 

 その一か月後に、30歳になった柿の木が根元から切断された。しかし、最後の秋にかろうじて自らの枝にいくつかの実を残すことができた。そして、庭の植え込みと芝生の上に、自らの子孫をばらまいたのだった。持ち主の怠慢に乗じて、どうにか生き延びるための作戦は功を奏したようだった。
 わたしは、あの3本の柿の木のうちのどれかを、庭の植え込みの中に残そうと思っている。境界線からは少し離れている1本だけは、切らずに助けることにしよう。それならば、引越してくる新しいご近所さんにも文句を言われないだろう。
 もしかして二代目になる柿の木には、甘い実がなるかもしれない。桃栗3年、柿8年。うまくいけば、新生になった柿の木が、枝先にたわわな実をつける。7年後か8年後。それまでに、わが家が下町に引越しているかもしれないが。