2週間間ほど前から、6月10日刊行予定の『ローソンがセブンを超える日(仮)』(NKH新書)の原稿を書いている。全体は3部7章構成で、骨組み(細部の企画書)はほぼ固まった。ここまでくると、あとはひたすら文字を書き連ねるだけになる。この作業に入ったあとのプロセスが実はいちばんきつい。
NHK出版の編集担当者、山北さんが小川研究室の編集会議(小川+青木)にときどき参加してくださっている。3日に一度のペースで「拡大編集会議」が開かれる。『マクドナルド 失敗の本質』では、半年のリードタイムがあった。ところが、今回は原稿の仕上げまでに残された時間はわずか2か月しかない。
無理を承知の締め切りを設定したおかげで、出版のタイミング(デッドライン)に間に合わせるため、春休みはどこにも出られない。終日ずいぶん長い時間(7~8時間)、森下の書斎や市ヶ谷の研究室でPCに向き合っている。
予定されたパーツ(部品)がうまく書けているときはいいが、アイデアに詰まるとしばしば心が折れそうになる。そして、日々、コンビニ上位三社(ローソン、セブン、ファミマ)に関するたくさんの書籍と記事を読んでいる。一日に2~3冊を読破することもある。
賞味期限が絡んだ食品廃棄問題から、オーナーや従業員のブラックな働き方まで、広範なテーマを扱っている。ふつうのコンビニ本よりも守備範囲が広い。しかし、研究者が書いたコンビニ本のように、理屈ばかりが先行しないよう気をつけている。
一昨日読んだ吉岡秀子さんの『コンビニだけが、なぜ強い?』(朝日新書、2013年)で、おもしろい記事を発見した。原稿疲れが出たきたので、ここで私の息抜きの為に紹介しておく。今回のお家騒動の主役、セブン&アイホールディングスの井阪隆一社長へ著者の吉岡さんがインタビューしている記事がその中にあった。これを見て、少しだけ井阪さんを見直した。
はるかな昔に、鈴木敏文社長+伊藤雅俊会長の時代にできた店舗コンセプト=「開いててよかった」を「近くて便利」に変えたのは、井阪さんだった。それは、2009年で井阪さんが社長に就任した直後だった。鈴木さんが井阪さんに社長を降りるように迫ったときの言い分が、「(井阪社長からは)何も新しいものが出てこないから」だった。どうやら、この事実はちがっていたらしい。
井阪さんの人柄を悪く言う業界人はいない。昨日も、某大手食品メーカーの経営トップと電話で話すことがあったが、そのときも「井阪さんはよくやっておられますよ」と関西弁で井阪さんをほめていた。コンビニ業界で流布している井阪さんについての有名がエピソードは、「冷やし中華のダメだし事件」である。鈴木さんの数十回のダメ出しに耐えて、最後にヒット商品を生み出した話である。
しかし、井阪さんの功績は商品周りだけではなさそうだ。店舗のコンセプトを、何気なく変えたという実績もあるではないか!「近くて便利」は、いまやメディアでも頻繁に引用されている。井坂さんの発案になるアイデアだとは、新聞や雑誌でもあまり紹介されることがない。
吉岡さんの記事が正しいとすると、井阪さんは事業コンセプトを整理する革新者としての資質をもっているということになる。言葉(コンセプト)でひとを動かす力を持ち合わせていることになる。経営者の能力を図る大切なポイントだ。
この点で対照的なのが、サントリーホールディングスの現CEO新浪剛史社長である。12年間務めたローソンの社長時代に、新浪さんは多くの功績を残している。その中の一つ、いまや伝説となっている笑い話がある。井坂さんが「近くて便利」を言い出した翌年(2010年)、ローソンのストアコンセプトだった「マチのホットステーション」を「マチの健康ステーション」に新浪さんは急に変更した。
新浪さんといえば、タンニングマシン(顔の肌が黒い)とジム通いが好きなことで有名である。なので、社員が健康で働けるように「ローソン健康宣言」をしている。その結果が、突然の「健康ステーション」だったのだろう。しかし、この言葉がローソンのその後の商品開発や店舗運営の基本的なあり方に影響を与えることになった。
新浪さんの例は、社長の趣味と行動が、会社のストアコンセプトを変えてしまった極端なケースである。とはいえ、井阪さんの「近くて便利」にせよ、新浪さんの「マチの健康ステーション」にせよ、言葉には恐ろしい威力がある。
教訓である。切れの良いコンセプトは、会社の未来の方向性を変えてしまうこともある。そして、トップはそうしたコンセプトを毎日、しつこく社員やメディア、取引先に伝え続けなればならない。