世界に通じる、日本の花×日本人のフラワーアーティスト

 フラワーゲートの丹羽英之さんに、火曜日のJFMAセミナーで講演していただいた。題して、「世界は日本の花に魅せられる」。講演を聴く前は、日本の花に国際通用性があるとは思っていなかった。日本人のフラワーアーティストが世界で評価されているとは信じがたかった。

 

 ところが、一時間の講演で、期待はものの見事に裏切られた。国産の花の普遍性や日本人アーティストの卓越性を信じることができた。その背後にあるのは、月並みなことなのだが、自然を作品にどのように取り入れているかに尽きる。どこまでいっても、欧米のフラワーデザインは、どこか人工的なテイストが抜けない。

 それは、別にフラワーデザインに限ったことではないだろう。食品スーパーや衣料品店に並んでいる、食べ物(たとえば、惣菜)についても言えることだ。

 また、料理の成果も同じみたいだ。日本人のシェフが出す料理は、どこか欧米人の料理人が作る皿とはちがっている。それは、食べ物を”自然からありがたくいただいてくる素材”と考えるかどうかのちがいに由来しているように思う。欧米人は、自分たちが自然から奪い取ったもの、自分たちで作ったものと考えるだろう。

 農業技術を発展させたいまでも、日本の農民は、農産物はとこか自然のおすそ分けと考えているところがある。本質的に、栽培に対する感覚がちがうようだ。

 

 別の見方をすると、日本人の心の深いところには、ある種のアニミズム信仰がある。野菜や魚などの食材であろうが、アレンジメント用の切り花であろうが、自然界からその一部(植物)を借りて、料理や花束を造形するという考え方である。丹羽さんは、別の表現ながら、同様の説明をしてくださった。そうそう、それは”一輪挿し”の世界なのだ。

 葉っぱや茎などの材料も作品を構成するデザインの一部。だから、花だけを、あたかも部品のように鑑賞者に見てるのは、邪道なのだ。葉っぱも茎も、つぼみと一緒に一体化されたパーツ(部分)でなければならない。それ自身、単体では成り立たない、全体を総体として楽しむのだ。

 それだからだろう、日本の生産者は、一本の花を大切にする。総体としての花を生産しているのであって、部品を栽培しているという意識がない。そこが日本の花の特徴である。

 

 そう考えると、国産の花の欠点は、実は長所であることがわかる。規格化された工業製品を作るのではなく、一本一本の個性ある花を作るのだと思えばである。そうだとすると、日本の花店は、国産の花きの特徴でもある、良い意味の品質のばらつきを活用する商品化政策を志向すべきではなかろうか?

 むしろ、流通の側は、ゆらぎを商品価値に変換する販売方法を工夫すべきだと思う。そうしたインスピーレーションを、丹羽さんの講演からいただいた。そうそう、お花にも”おいしさ”があることもわかった。