【予告】『新潮45』の6月号に、「日本社会で、社外取締役は本当に必要となのか」という文を書きました。

 先月から、『新潮45』に社外取締役の必要性について書くよう依頼されていた。6月は株主総会のシーズンである。今月(5月)の1日に会社法が改正され、上場企業は複数の社外取締役を選ぶことになる。設置をしない場合には、その理由を説明する義務を負うことになった。



 知り合いの大学教授や経営者の何人かは、実際に大手企業の社外取締役を務めている。それも複数掛け持ちで引き受けている女性研究者や大物経営者を知っている。研究やビジネスにかまけて、そんな時間がよくあるなというのが正直な印象である。
 わたし自身も、友人の経営者から、「社取」への就任を打診されたことがある。監査役就任依頼もあったが、すべてお断りしてきた。だって、いまのわたしに、毎月の取締役会に出席する時間の余裕などない。出席は90%以上必要らしいから、残り少ない時間、多少のお金をもらっても割に合わない。
 それと、いくら友達とはいえ、他人のビジネスの責任の一端を負うリスクは冒したくはない。プロセス重視の米国と違って、日本の企業社会では、下手をするとお縄頂戴になる。オリンパス事件でもそうはならなかったようだが、監査役にでもなろうものなら経営責任を負うことになる。

 というわけで、社外取締役を務めている友人たちの気持ちがしれない。アドバイスと監視責任をとる自信がないのだ。引き受けてしまえばしまったで、わたしのこの性格だから、たぶん社外取締役に就任したとたんに、メンバーにがんがん言ってしまいそうだ。責任もついて回ることが自明だから、それはやらないだろうと思っている。
 そんな気持ちも込めて、あまり得意分野ではないが、「社外取締役不要論」を展開させていただくことにした。歴史的な分析と他人の研究成果を引用しながら、日本の企業社会で社外取締役を増やしても、うまく機能するのは例外的な場合である。これが結論である。
 マーケティングの専門家=門外漢が、企業統治について述べている。しかし、この短い意見文は、米国流の制度移転の文脈での仕事になる。表向きの理由と異なる「別の理由」から、社外取締役の設置が制度化されたのである。社外取締役の潜在市場は、約1000億円。
 定年退職後の役人にとっては、新たな天下り先の開拓である。米国の言うことを聞いて制度改革をした弁護士と公認会計士は、職にあぶれている。そのための救済スキームとして、定期的に仕事が舞い込む社外取締役のポストは、天から降ってきた利権でもある。
 すでに、数件、社外取締役の派遣紹介ビジネスが立ち上がっている。なんとなく危ない感じのする制度であると感じるのは、わたしだけなのだろうか。