朝日新聞(正義新聞)と民主党(労働組合)を、どうしてそこまで毛嫌いするのか。怪訝に思われる方も多いと思う。そこで、もう時効になった個人的な体験を、明らかにしてしまうことにする。長らく封印してきた「冤罪事件」(濡れ衣)を読んでいただければ、その背景を納得をしていただけると思う。
話は、3年半前に遡る。法政大学大学院の新一口坂校舎6F(千代田区九段北)に、わたしたち(JFMA)の事務所があった。そこは、「研究ブース」と呼ばれる開放的なオフィス・スペースだった。6階はオープンなフロアで、簡単な間仕切りで区切られた「11個のブース」(各5坪)があった。
7人の先生たちが、それぞれがスペース(1~3ブース)を借りていた。大学の事業室が管理していて、借りるのは、もちろん有料だった。決して安い金額ではない。
私たちのように、外部の企業・産業と共同で研究をする先生たちが集っていた。社会的にも知名度が高い先生たちの「リエゾンオフィス」のような感じだった。工学部、社会学部、キャリアデザイン学部、経営大学院など、所属は多様だった。
そして、ある日、いまでも忘れらない、ある事件が起こった。
『(法政大学)教職員組合ニュース』に、わたしたち(小川とJFMA)を名指しで、「大学の施設を勝手に使っている教員がいる」という記事が出た。
わたしは当時、組合員ではなかった(組合のあまりの横暴に怒って、その後に組合員になった!)。職員の誰かから教えてもらって、すぐに抗議をした。
「(ブースを借りるために、)大学と正式な契約書を交わしている。きちんと賃貸使用料金も支払っている。よく調べて、記事を書いて欲しい。名誉を毀損したことを、組合ニュースで謝罪してください」
当時の組合委員長は、N教授だった。、わたしの抗議にすぐに反応せず、のらりくらりと逃げようとした。そのうち、事業室に問い合わせて調べてみたら、わたしたちが大学に事務所の賃料をきとん支払っていること、スカイホールなどを借りるときは、使用料を払っていたことがわかった(数十万円を数年間)。証拠があるから、相手は防戦しようがない。
最終的には、わたしに確認をとってきて、謝罪文を組合ニュースに掲載した。わたしとしては、溜飲を下げたわけだが、これまでは、このことを明かにするつもりがなった。学外に向けて発信してしまうと、大学の恥になるからである。
ここまで書いて、想像していただけると思う。
わたしの冤罪事件は、他人事ではないのだ。だれもが、経験しうる可能性がある事件である。厚生労働省元局長の村木さんは、最後は無罪を勝ち取っている。しかし、である。一歩間違えば、有罪で終わったかもしれないのだ。
わたしの場合も、敢然と怒り狂って、教職員組合に抗議したから、「冤罪」で「泣き寝入り」をしなかっただけのことだ。もしあなたが、まわりに協力者や支援者がいなくなったときのことを考えてみてほしい。
裁判で告訴されたり、疑惑で逮捕されれば、ほとんどの友人はそのとたんに居なくなる。弁明の機会(法廷などで)を与えられないとすると、世間は、「濡れ衣」をそのまま信じるかもしれない。こんなことが、毎日のように起こっているかもしれないのだ。
どうして、わたしや村木さんが、そして、小沢一郎が経験している冤罪事件が起こるのかを、以下では説明してみることにする。
冤罪が起こる理由は、4つである。(1)密かな敵意感情、(2)調査能力の不足、(3)正義に対する傲慢と怠慢、(4)情報の大衆迎合
(1)密かな敵意感情
断罪の対象になる相手に対して、どこかしら敵意や嫌悪を抱いていること。村木さんは、エリート官僚、小沢一郎は成功した政治家、わたしは?(少しだけ世間に名前が売れた、身勝手に振舞う大学教授(笑い))。わたしたちは、足を引っ張りたいと願う、格好の対象なのだ。
そうした思いの背後には、哀しいかな、暗い嫉妬心がうごめいている(ような気がする)。とにかく、目立つやつは、目障りで気に入らないのだ。そうした敵意感情があることを、馬鹿にしているわけではない。そうではなくて、わたしは、密やかながら、悪意を含んだ嫉妬心に、さんざっぱらやられてきている。
暗闇から飛んできた矢を、さっとうまくさばけなかったわたしが、結局は悪いのだ。いまでも、そのように思っている。しばしば、ブックオフの坂本孝元社長のことを思い出す。
(2)調査能力の不足
村木さん事件でも、小沢一郎の場合でも、そして、小川先生のケースでも、よく調べれば真実は、すぐにわかることなのだ。問題は、濡れ衣を着せる当事者たちが、(3)でいう間違った正義感に引きずられることである。
よく調べもせずに、相手を「悪者」と決め付けてしまう。先入観や常識に導かれるので、態度の転換がむずかしいのだ(特捜の前田検事の例)。村木さんのときも、特捜部は、保身のために捏造に走った。
小沢一郎のケースは、さらに巧妙な構造になっている。舞台裏では、政治的な配慮があるので、法的に有罪・無罪であるかどうかに関わりなく、告訴や裁判のプロセスが不当に取り扱われている。
わたしが小沢一郎氏に同情するのは、心理学でいう「フレーミング効果」によって、彼は最初から不利な立場に立たされていることである。世間の感情(イメージ)が、あまりにも悪いので(失礼、人ごとではない)、客観的な捜査結果が、中立的には見られないのである。
マスメディアは、そのことを悪用して、視聴率や購読率を上げようとしている。
しつこいようだが、もう一度言わせてもらおう。彼らに、有罪か無罪かはどうでもいいのである。発行部数とスポット広告が売れれば、それで満足なのだ。だって、TVプロデューサーや雑誌編集長の成果のモノサシは、、、、上がらなければ、即日に首なのだもの。
(3)正義に対する傲慢と怠慢
「勧善懲悪」の世界観(水戸黄門的な世界)ほど、怖いものはない。日本人だけが、そうしたセンチメントに毒されているかといえば、そうでもない気がする。
世の中には、一般的に正しいと思われる不思議な「正義の基準」があるように思う。そこから外れる人間や行為をバッシングすることで、ある種の「カタルシス」(浄化)を得ている。敵意感情は、消費されるのである。その対象が、小沢一郎である。
たとえば、いま「中国」に対する日本人の反発はひどい状態にある。わたしは、正直に言えば、日中関係の揉め事には、きわめて冷静である。中国はひどい国かもしれないが、お互い様ではないのか。決して、日本人は威張れないことを平気でしている。中国人や韓国人に対する、差別的な行為を見てみるがよい。
気をつけなければならないのは、こうした「正義感」と「敵意感情」を、自分たちの利益のために、巧妙に操作しようとする悪い連中がいることだ。そのことに、ひとびとが気がつかないことも深刻である。「正義」という隠れ蓑(錦の御旗)は、実に怖ろしいのだ。
(4)情報の大衆迎合
(1)~(3)まで、述べてきたことには、共通の背景要因がある。民主主義がまともに機能するには、政治的な成熟度が必要だということである。
間違った正義感、不十分な調査、密かな敵意感情がまとまれば、完璧である。これに、ポピュリズムが重なれば、もう無敵である。「いけにえのヤギ」は、格好のターゲットとなる。メディアに曝され、はげしく攻められれば、心理的には無抵抗にならざるを得ない。
別の意見や異なる視点などは、吹き飛んでしまう。わたしは、多数決を絶対基準とする「民主主義」は、政治的に成熟していない社会では、「大衆迎合」(ポピュリズム)に陥ると思っている。操作されてもいないのに、情報が一方向に集約される。また、そのような方向で「町の噂話」は広がっていく。デマも、たくさんの情報発信で、まちがった「真実」になりやすい。
ネット社会は、そうした情報操作に、むしろ向いているようにさえ思う。暗黙の意見の封殺である。朝日新聞を、わたしがどうしてきらいなのか。お分かりいただけただろうか?