法政大学多摩キャンパスの30年後(これで良かったのだろうか?) 本日、京王多摩センターから秋葉原まで首都圏を横断。

 中野監督とのインタビューのため(『月刊ランナーズ』の企画)、7時41分に西白井発の北総開発鉄道で多摩センターまで。東日本橋で一回乗り換えて、9時31分に多摩センターに到着の予定だ。帝京大学にははじめて行くが、えらい山の中にある。不便なのは法政大学の多摩校舎といい勝負だ。



 1980年代のバブル期に、文部科学省が、都心部にあった大学を郊外に追い出した。学生運動に嫌気がさしていた私立大学のいくつかは、国の「追い出し政策」に乗っかってしまった。先見の明がなかったのだろう。郊外に移転した法政大学でも、多摩移転を巡って「お家騒動」が起こった。
 あの当時、法政大学(多摩キャンパス)以外では、中央大学(八王子校舎)、青山学院大学(厚木校舎)、帝京大学(多摩校舎)、東京理科大(野田校舎)などが、首都圏の郊外に移転した。
 それとは反対に、明治大学は幕張移転に失敗した。早稲田も本庄児玉に移転する計画があったのだが、付属高校(本庄早稲田)の設置と一部の研究施設の移転でお茶を濁した。それはそれでよかったのだ。

 東京六大学のふたつの大学は郊外移転が中途半端に終わったおかげで、現在の繁栄がある。立教大学も同じだ。移転しなかったことが、そして当時の大学執行部に剛腕がいなかったおかげで、今日がある。法政大学には強力な政治政略があったことが災いした。もっとも、これらは単なる偶然のなせる業でもある。
 20年後、首都圏で郊外に移転した大学は、どこも生徒募集に苦労している。そんなことは、冷静に考えてみればわかっていたことだ。大学はサービス産業だ。立地、立地、立地の原則は大学にも当てはまる。
 その結果、20年後に青山学院大学は、厚木キャンパスを放棄して、発祥の地に回帰した。東京理科大学は、野田校舎の経営学部などを募集停止にするらしい。中央大学も八王子キャンパスでは、学生の人気がないと聞いている。

 最後の砦は、わが法政大学の多摩キャンパスだろう。多摩の若手教員は、都心に戻ってきたいのではなかろうか?法政の多摩キャンパスの教員に対して、真剣に考えるべき深刻な事例を紹介する。
 わたしの甥(Tくん)の受験についてだ。法政大学の教員を40年近くやっているが、これほどがっかりした事件はこれまでなかったことだ。2年前に、甥のTくんは東京の私大をいくつか受験した。わが弟は、埼玉県の吉川に住んでいる。進学校として知られている茨城県の某私立高校の社会科教師だ。
 Tくんは、法政大学経済学部(多摩キャンパス)と都内にキャンパスがあるミッション系のM学院大学に合格した。どちらも経済学部である。20年前ならば(キャンパスが市ヶ谷にあれば)、まちがいなく、彼は法政大学を選んだはずだ。
 ところが、わが弟は自分の息子のためにM学院大学に入学金を納めた。まさか、兄貴のわたしがH大学の教員だからではあるまい。法政大学に入学金を納めなかったのは、多摩キャンパスの不便さだけが原因である。甥のTくんは、埼玉の実家からは通えないのだ。

 哀しいことに、こうしたことの積み重ねで、経済学部や社会学部は、この10年間で偏差値ががた落ちだ。経営学部やキャリアデザイン学部のほうが、いまや偏差値で勝っている。経済学部は、もはやむかしの面影がない。社会学部も一時の勢いはなくかなりの低迷だ。
 法政の3つの付属高校(法政高校、法政二高、法政女子高)で、多摩にあって立地が良くない経済学部を選ぶ学生はいない。成績上位者は、ほとんどが市ヶ谷キャンパスを選択する。
 だからこそ、多摩キャンパスの都心回帰は、田中優子総長(社会学部教授)の時代に是非とも実現してほしい案件だ。しかし、彼女にそれができるかどうかは未知数だ?東京六大学ではじめての女性学長の様子を見ていると、マスメディアでも最近は影が薄い。
 賞味期限?それはないだろうが、このところを見ているとメディアへの登場回数が激減している。法政大学の広報部がうまく機能していないようだ。アカデミックな業績もある。世の中に売り込めるすばらしい素材なのにである。美しい着物以外に、彼女の売り出し方を真剣に考えてほしいものだ。

 さて、帝京大学もキャンパスの立地に関しては、似たようなものなのだろうか?
 年々駅伝が弱くなっているH大学とは異なり、駅伝部が強くなっているのはどうしてなのか。気になるところだ。駅伝競技は、ひとりの指導者の力でどうにかなるほど甘い世界ではないだろうが。
 本日のスケジュール。帝京大学から、そのまま都心にもどって、午後には秋葉原(インテージ)でCS(顧客満足)の講演である。千葉を起点にして、ほぼ首都圏を横断して都心に戻ってくる。そろそろ出かけなければならない。