「花の国 日本協議会」の誕生『JFMAニュース』(2014年6月号)を掲載致します。
「“花の国日本協議会”の誕生」
『JFMAニュース』2014年6月号 JFMA会長 小川孔輔
先週の「フラワーバレンタイン推進委員会」(6月23日)で、東日本大震災の直前(2011年2月14日)に始まった活動にいったん区切りをつけて、「フラバレ」のキャンペーン推進母体を新しい組織に移行することが決まった。新組織の名称は、「一般社団法人 花の国日本協議会」である。英語名では、“Flowering Japan Council”だ。Flowerを動詞的に使用するのは、JFMAのキャッチコピー、「Shall We Flower?」と同じ発想から来ている。
新しい組織(FJC)は、一般社団法人としての法人格を持つことになる。これまでの4年間は、2月14日に向けて「一点集中」の活動だったが、これからは年間を通して活動することになる。そのため、従来とはちがって、資金と場所と人材の投入の仕方を変えていく必要がある。「軍資金」の調達方法には、一定程度の目途が立ってきたが、新しい組織を構成するメンバーや事務所の場所などは、これから議論をしていかなければならない。
フラワーバレンタインの活動は、JFMAの「マーケティングプロジェクト」(花の消費拡大:2009年度)からはじまったものだ。2009年当時のプロジェクトリーダーも、その後にフラワーバレンタイン推進員会で会長を務めている井上英明さん((株)パークコーポレーション社長)だった。
いまでも鮮烈に思い出すのは、マーケティングプロジェクトを始めた「きっかけ」のことである。JFMAでは年一回、ほぼ年度末に近い理事会で、自由討議をすることになっている。2008年ごろだと記憶しているが、その会合の席で井上さんから言われた一言が実に強烈だった。
「先生、うちの会の名前に、“マーケティング”という言葉が入っているのに、10年間、(花の)マーケティング活動をなにもやってこなかったじゃないですか!」(井上常務理事)。
そのあとに、「先生は、大学でマーケティングを教えているんですよね」とさらにダメ押しの強烈なパンチが続いた。
そこからはじまった消費拡大プロジェクト(松島専務の命名は「マーケティングエンジン」)が、その後にフラワーバレンタインのキャンパーン活動を生み出したわけである。なので、井上さんも自身の発言の責任を取って、フラワーバレンタイン推進委員会では委員長を4年間務めてくれた。紆余曲折はあったが、新しい組織の発足にあたっても大切な役割を務めてくれるものと期待している。
フラワーバレンタインの運動が成功できた理由を整理しておきたい。ひとつの区切りを終えようとしている運動について、歴史的な意味づけをしておくことは、わたしのような学者の役割でもあるだろう。
フラワーバレンタインの活動が拡大してきた一番の要因は、なんといっても、テーマ設定が良かったことである。キャンペーンの候補日は、「いい夫婦の日」でも「ホワイトデー」でもよかったはずである。しかし、結果的にみると、プロモーションの軸として「バレンタインデー」(2月14日)を選んだことが、この運動を業界を超えたキャンペーンに発展させることができた最大の要因である。バレンタインデー以外では、他業界や多くのメディアをこれだけのスケールで巻き込むことは難しかっただろう。
二番目は、キャンペーンを推進する人材に恵まれたことである。実行部隊のトップを務めてくれたふたり(井上さんと小川(典子)さん)をはじめとして、ワーキンググループのメンバーには共通の特徴があった。それは、全員が年齢的に若くて(30代~40代)、しかも異業種から花業界に入ってきた人たちだったことである。マーケティング企画やIT技術や広報部門など、それぞれが得意分野をもっていたことも成功のポイントだった。
もちろん、運動が全国に広がっていったのは、業界人たちの組織的な努力と真剣さによるものである。とくに強調しておきたいのは、ひごろのビジネスでは競争している組織が、フラワーバレンタインの運動に限っては、協調行動をとることができたことが大きかった。したがって、あたらしい組織の成功は、花業界として一致団結が継続できるどうかと、異業種の知恵と協力関係を今後も活用できるかどうかにかかっている。そのようにわたしは感じている。