宮崎駿の「ジブリ色」: 自然が創作物を模写する?

 今日は絶好のマラソン日和である。先ほど家の近くの調整池から出て、国道16号線沿いを千葉ニュータウンまで走ってきた。稲の刈取りが終わった田舎道を、LSD(ロング・スロー・ディスタンス)でゆったりと15キロほど。気分が爽快である。



 いつも走り始めてすぐに、ウォーミングアップをしながら空を見る。池の周りのユーカリの高木の緑の上に、透き通るような空が青く広がっている。とても美しい。
 白い雲が空の青さを際だたせているのだが、その空の青色が「ジブリ色」(ジブリ作品、たとえば、「魔女の宅急便」で少女キキが箒に乗って浮かぶ空の色)に見えてしまう。そんなひっくり返った発想に、われながら笑ってしまった。
 スタジオジブリは、自然の青空を忠実に再現してアニメ映像を作っているはずである。なのに、宮崎駿が紡ぎだした一連の作品を見慣れてしまったわたしたちには、ジブリ映像の中の青色こそが現実であって、自然が宮崎作品の空色を模写しているのだと錯覚してしまう。
 単なる錯視なのだが、創作物を自然が模写しているように感じてしまうのだ。自然と創作物の立場が逆転している。

 「崖の上のポニョ」に登場する海の青色や、「千と千尋の神隠し」に出てくる川の水のゆらぎを引いていく白色も同様である。アニメの映像が自然以上に自然だからだろう。注意深く色調(トーン)を決められた作品中の「創作色」と、自然が変化していく様を模写するアニメーションの演出についても同じである。
 たとえば、「風立ちぬ」の中で、主人公の辰雄が飛ばした紙飛行機が旋回する様子や、ヒロインの菜穂子の傘がなぞる風の軌跡を、わたしたちは本物の風の振る舞いだと納得してしまう。風は見えはしないのだが、木々のざわめきで風を感じることはできる。風を感じる感覚を、視聴者はアニメーションの動画によって諭されるのである。

 空や海の「青」色以外にも、ジブリ色はある。「トトロの森」の奥深い緑や、ススワタリが居る夜闇の漆黒、猫バスの目が光る恐怖の黄色など。
 アニメの中の色が、わたしたちの美しさの基準になる。本物の自然を見るときに、わたしたちは、森の緑や闇の中のランプの灯をジブリ作品中で展開された劇中の色と対比する。それほどまでに、自然界の色の感じ方に関して、宮崎駿のジブリスタジオが与えた影響は大きかったのではないだろうか?
 ジブリ作品のシナリオについては、わたしのように異論を述べる評者もいる。しかし、宮崎駿が引退しても、ジブリ作品が人々に与えた「美しい色の基準」は永遠に残るだろう。映像物として、絶対的に美しい色調とはどういうものなのか?ジブリ作品の世界を構成する色彩について、他者は評価・追随のしようがないだろう。
 自然界を模写させるくらい美しい色、とくに、空と水の透き通った「青」と木々の奥深い「緑」を、「ジブリ色」(jibri colore)と呼んでみてはどうだろうか?