【続編】 遠い昔にひと夏を過ごした阿仁合村(米内沢)からの伝言

 (つづき)水道橋の「庭のホテル」で食事をした後は、千葉の自宅に戻って、翌日の授業の準備をしなければならない。しかし、世田谷の仙川にある「東京 森のテラス」を覗いてみたくなった。明日の準備は、夜中に起きて特急でやればよい。



 山田さんたちも、午後の時間は空いているようだった。JR水道橋駅から、都営新宿線の神保町駅までは歩いて10分。笹塚駅で、都営線の電車は京王線に乗り入れている。このまま直行しても、仙川までは30分もかからないだろう。
 お言葉に甘えて、「東京 森のテラス」で、オープンガーデン誕生までの話の続きを伺うことにした。プロの写真家とライターさんたちが編集した「秋田 森のテラス」のカタログの魅力に、とうてい抵抗することができなかった。
 写真と文章は、4月に完成したばかりで、センスの良い芸術作品に仕上がっている。冊子の裏扉には、暗闇の中を乱舞する蛍や、樽岱山のふもとの湿原をぬって走る木道が、水と緑に浮かんでいる。
 
  「東京 森のテラス」の1階のデッキに座って、ふたりと夕暮れどきまで話し込んた。秋田から持ち帰った砂糖菓子が、お酒のつまみになった。不思議なことに、日本酒には羊羹や甘納豆など和系の甘いものがあうものだ。
 森のテラスを楽しむのに、せっかくだから、アルコール飲料がほしかった。仙川駅からの道すがら、日本酒の180MLパックを、近くのセブンイレブンで購入した。栃木県・北関酒造の「鬼ころし」である。説明はいらないだろう。
 仙川にある森のテラスは、敷地面積が約100坪。傾斜地に建てられた自宅兼事務所は、3階建てである。建坪は90坪くらいだろうか。見た目には、もっと広くて、150坪ほどの大きさに感じられる。
 3階の自宅以外は、オープンガーデンとして一般に開放されている。2階の和室からは、坪庭と和庭園を眺めることができる。建物の一番下の1階には、パーティーで使えるウッドデッキがあって、森のテラスに開かれた小部屋の隣には、キッチンが併設されている。持ち込んだ食材を台所で調理すれば、そのままBBQパーティーを開くことができる。
 前日は、小さな結婚式があったらしい。たしかに、20人~25人くらいまでなら、ガーデンに併設された森の中で、かわいいウエディングが挙げられそうだ。
 
 ざわ、ざわ、ざわー。樹齢70年を超える榛(はん)の木の枝が、風に揺れている。
 立川から世田谷まで続いている「国分寺崖線」(断崖の連なり)の崖を、夕刻に吹く涼しい風がテラスまで渡ってくるのだ。さざ波のようにそよぐ風を、ウッドデッキのスツールに腰かけながら、耳と肌で感じとることができる。ここが、世田谷のど真ん中だとはとても思えない。
 背の高い樹(樹種はわからない)が、崖下の隣家の屋根にかぶさっている。雄太郎さんによると、落ち葉の秋は、隣の家からクレームの嵐なのだそうだ。それはそうだろう。こんなに深い森の木々からは、たくさんの落ち葉が隣家の屋根に積もることになるのだろうから。
 「夕方になると、風が強くなってくるんです。6月に入ると、やぶ蚊に刺されて大変です」(芙美子さん)
 若葉のころ、5月中旬。ガーデンテラスで、外遊びを楽しむには、いまがいちばん良い季節らしい。臨月を迎えている芙美子さんが、ガーデンライフの楽しみ方を解説をしてくれた。雄太郎さんのほうは、「森のテラス」の経営的なことを、わたしにアドバイスしてほしそうだった。
 
  * * *

 翌日に、わたしは久しぶりで母親に電話をした。山田さんが、秋田の「番人小屋」からわたしに電話をくれたつぎの日に、能代のわが実家(呉服屋)を訪ねたと聞いたからだった。
 電話口の母親(小川ワカ)によれば、芙美子さんは8月に生まれてくる予定の赤ちゃんのために、わざわざ肌着などを買ってくれたらしい。そして、「秋田 森のテラス」のカタログを置いて帰っていったという。
 電話をしたのは、母親にあることを確かめたかったからだった。子供のころ、阿仁合(米内沢)近くの村で、ひと夏を過ごした記憶があった。小学校の3年生か4年生のころだった。
 阿仁合の村までわたしを連れて行ってくれたのは、たしか竹内さんという、きれいなおばさんだった。山田さんからいただいた「森のテラス」のカタログに映っている田園風景が、すごく気になっていた。いつかどこかで見た覚えがあるのだ。

 「そのひとは、武石さんだよ。子供さんがいなかったから、姪の京子さんを養子にして育ててたのよ」と母親が言った。
 幼い日の記憶が蘇ってきた。武石さんは、阿仁合の村に小さな店を持っていた。わたしの父親(小川久)が経営していた小川商会から、武石商店は肌着や寝具などを仕入れていたのだ。昭和30年代から40年代にかけて、父の商売はけっこう大きかった。地方の呉服屋が、さらに田舎の店に商品を卸す問屋業も営んでいたのだ。
 あの夏の日、わたしは毎日、「あずきアイス」を食べていた。アイスを食べ終わると、木の棒に「当たり」の文字が浮き上がる。すると、もう1本おまけで、あずきアイスをもらえたのだ。そのアイスをさしだしてくれたお姉さんが、京子さんだった。

 わたしは、ふと京子さんに会ってみたいと思った。母は、なぜかめずらしく積極的だった。
 「武石さんは、たしかサヨさんっていったね。亡くなってから20年もなるかな? しばらく連絡してないから、京子さんに電話してみるかね」
 翌日、母から電話があった。京子さんと連絡が取れたのだ。数年前までは、仕出し屋をやっていたが、いまは店を閉じている。旦那さんがなくなって、いまは独り身らしかった。
 そして、なんと、わたしがひと夏を過ごした場所は、米内沢高校の向かいだった。「秋田 森のテラス」から歩いて5分と離れていない。

 「母さん、7月に蛍が飛ぶらしいから、米内沢まで行ってみる?」
 一昨年、ダリアをもらった鷲沢さんとも、母は直接は会ってはいない。お礼をしなくてはいけないと思ってもいるらしい。即決で、わたしは秋田行きを決めた。
 7月6日から9日まで、わたしのスケジュールは空白である。すぐに山田さんに連絡を入れてみた。番人小屋に、母親と一緒に泊めてもらうことを申し出た。
 山田さんたち夫婦も、七夕の前後は、秋田の森のテラスにいることがわかった。蛍の夕べを催すからだった。わたしたちの訪問は、彼らの邪魔にならない程度に。
 50年前の風景がもう一度見られるのだ。あの場所に戻れるのは奇跡のようなものだ。きっと今も、ほとんど変わっていないのだろうな。山と水と森と蛍と。
 体が弱ってきた82歳の母を、こうして外に連れ出すのは6年ぶりになる。青森の日景温泉に泊まって以来のことである。もしかすると、これが最後の親孝行になるかもしれない。