今月に入ってから、かなり凹んでいる。人事の結果責任を問われているからだ。それも一件、二件などというものではない。片手に余るくらいの案件で、不具合が重なっている。良かれと思った人事案件が、ことごとく裏目に出ているのだ。
経営学部長の時代(2001年~2003年)から、採用人事では、コケることが多かった。もう時効だろうから白状するが、専任教員の採用では、拒否権を発動されて往生したものである。そのことがきっかけで、仲間の信頼を失った過去がある。金と人には、本当に縁が薄い。
今回は、それほど深刻ではないが、中身は似たようなものである。わたし自身の見極めの甘さにも問題がある。しかし、組織を運営していく立場にあるから、やや危ないと思っても、日々誰かを採用していかないと組織が動いていかない。
立ち止まって考えてみる。過去の決定に対しては、自分しか責任が取れない。ぎりぎりの決定を下していなければ、この組織は存続していなかったはずだと。
何度も繰り返される恐怖感の中で、仕事を続けている。物事を決めることをしなければ、責任をとらなくてよい。そうなのだが、不決断という選択肢はわたしの側にはない。不幸な巡り合わせだといつも思っている。
人事(じんじ)が他人事(ひとごと)であれば、なんとストレスのない時間を過ごすことができるだろうか。自分に不向きなタスクを担うことを、できれば避けたいと思っているが、それは叶わぬ夢である。
こんなボヤキを、昨日のJFMAの理事会で隣の席に座った守重副会長に嘆いたら、即刻にたしなめられた。「(小川)先生ほど、運の良い人はいないのですよ」
たくさんのプロジェクト(仕事)を実行していれば、それだけ人間関係で不都合が起こる可能性は高まる。確率の問題なのかもしれない。たしかに、わたしが「人を見る目がない」という面がないわけではないが、リスクはトライアルの数に比例して起こる。
ある程度の失敗は避けて通れない。やめるわけにはいかなので、同じ過ちを冒す確率を低くするように学習するしかない。
そんなわけで、本日も、起こってしまった不都合な事態の後始末のために走り回っている。
人事の責任を誰かに押し付けて、知らぬ存ぜぬと逃げ回っている経営者を見かける。最終的には番頭さんが尻拭いをしてくれるのだが、わたしにはそれができない。わたしの周りに、失敗をフォローしてくれる同僚や仲間がいないわけではないのだが、責任は潔く自分で引き受けたい。
子供のころ、呉服店を経営していた母親に言われたものだ。「孔輔、”ごめんなさい”、”もうしわけありません”と、(客)に頭を下げるのには一銭もかからない。苦情を言われたら、とりあえずは頭を下げておくもんだよ」
ヤオコーの川野幸夫会長は、八百屋を営んでいたご両親が、お客にペコペコ頭を下げているのを見て、「商売人はいやだ」と思った。その結果、社会派の弁護士をめざして法学部に進学した。わたしはそれとは逆で、商売人はしたたかだと思い、進学先として経済学部(ビジネスの入り口)を選んだ。
実の妹には、研究者になっても、「お兄ちゃん、学者さんなんだから、周りのご機嫌をとるのにそんなにペコペコすることないのに」と説教されたことがある。
でも、それが自分の姿勢なんだと思っている。おかげさまで、仕事をさせてもらっている。失敗したら、間違いを認めてさっさと謝る。今度も、そんな風に物事に対処するしかないだろう。人事は、他人事にはしない。自分事である。