初恋りんご風呂@信州小諸、中棚荘から

 秘書の福尾とアシスタントの青木を、JR亀戸駅のロータリーで車からおろして、白井の自宅にさきほど帰還した。土曜日(3月25日)に、乾武(けんむ)マラソンを走ったその足で、信州小諸の中棚荘に投宿。夕方、二人を乗せた山口号(ホンダ)が到着する前に、わたしはりんご風呂に浸かっていた。



 中棚荘には、去年の夏にまるまる二週間も泊めていただいた。「千曲川旅情の歌」で有名な島崎藤村ゆかりの宿である。今回は、りんご風呂に浸かるために、研究室で社員旅行を企画した。
 残念なのだが、今回に限っては、日曜日の一泊だけである。もっとも世間では、それがふつうらしい。女将の話では、どんなに長逗留でも、せいぜい4、5泊が最長のようだ。

 わたしが到着すると、フロントで小林さんが迎えてくれた。食事の前には、丸山さんがフロントまで挨拶に出てくれた。
 丸山さんは、はりこし亭で行事があるらしく、しごとが忙しいらしい。なのに、わたしたちのお給仕係りでもないのに、夕食の小部屋にわざわざ一品だけを運んで来てくれた。わたしが丸山さんをお気に入りなことを知っている女将が、きっと仕組んでくれた演出である。
 丸山さんは、旧姓が福尾である。千葉在住の秘書の福尾(美貴子)に、「福尾姓は、もともとが岐阜の出なのですよ」と説明してくれた。福尾(旧姓は関屋)の方は、嫁いだ先が福尾だったので、福尾の由来はまったく知らない。「千葉県の電話帳には、わたしたちだけなんです」。

 食事の合間に、中棚荘のご主人が、冷えたNAKADANAのシャルドネを持参してきた。旅館のご主人というより、いまや数ヘクタールのブドウ園で、メルロー(赤ワイン用)とシャルドネ(白ワイン用)を栽培しているワイン農家の栽培主である。
 中棚荘の従業員には、ぶどうの収穫時期になると、朝8時に召集がかかる。旅館の仕事以外に、このシーズンは、数十トンのブドウを摘むしごとがあるのだそうだ。
 「昨年の秋に収穫したブドウから作ったワインは、昨日ビン詰めしたばかりでして、4月の末にならないと飲めないんです」とご主人が残念そうに、わたしたちに宣言した。わたしたちは、ひと月ほど早くに来てしまったことが悔やまれる。
 そんなわけで、夕飯のワイン(シャルドネのNAKADANA)は、2010年収穫のブドウから作ったワインになった。やや甘みが強い良品ではある。
 最後に、笑顔のふくよかな女将が登場。バイクの乗りの女将からは、レスリングの国体予選で優勝できなかった息子さんのその後のことを伺った。オリンピック出場への夢が絶たれたあと、息子さんは星野リゾートに修業に出たことを知った。新しい旅立ちである。

 特別料理をおいしくいただいたあと、青木と福尾は、深夜に何度もりんご風呂に浸かりに行ったらしい。女性たちが部屋を出る足音を、わたしたち男子はまったく覚えていない。というのは、わたしと山口は、ワインと日本酒を飲みすぎて、食事の後に部屋に敷いてあったふとんにそのまま沈没してしまったからである。
 朝ごはんの席で、お風呂に浮かんでいる林檎の数のことが話題になった。わたしは、朝風呂に入りにいったときに、きちんと林檎の数を数えていた。山口にも、風呂場でそのことを話していた。
 「男風呂はちょうど70個だったよ」と話すと、青木と福尾がびっくりした目をした。女風呂には、52個しかリンゴが浮かんでいなかったらしい。18個の差は、ちょっと不思議である。
 「でも、青木さん。昨晩は、もっと(数が)多かったような気がしたんだけどなあ」(福尾)
 「そうですね。誰かが部屋に持ち帰ったんじゃないですかね」(青木)

 昨晩は、家族連れが多かった。たしかに、小さな子供さんがたくさんいた。男風呂に入っていた男の子は、お風呂に浮かんでいる林檎を手に持って、父親の顔をしげしげと見ながら、丸ごとかじりたそうにしていた。父親は困った顔をしていたが、「いいんじゃない?」という風でもあった。
 「女風呂の林檎は、子供が食べてしまったのかもしれないよ」(山口)。
 ふたりの話では、半分かじりかけのリンゴが女風呂には一個、浮かべてあったらしい。でも、どうして女風呂のほうだけが、絶対的に数が足りなくなっていたのだろう。これは、謎である。

 白状してしまう。夕食の席で、わたしから青木に、「女風呂から林檎を一個持ち帰ってきてね」と頼んであった。でも、一個だけである。
 わたしは、その一個を「お守り」にしようと思っていた。女風呂に一晩中、浸かっていた林檎である。なんとなく、ご利益がありそうだ。
 ところがである。横川パーキングエリアで、何年かぶりで「峠の釜めし」を食べた。3人も、何十年ぶりらしく、かつて信越本線で食べた釜めしの味にえらく感激していた。そのあと、青木と福尾を山口の車からわたしの車に移した。夕方に仕事で霞が関に寄らなければならない山口に代わって、わたしがJR総武線の駅にふたりを送り届けるためである。
 手を振って山口号と別れたのだが、そのあとに青木があることに気がついた。せっかく青木が女風呂から持ち帰った大切な林檎を、山口の車の中に忘れて来てしまったからである。
 わたしは大いに落胆した。せっかく運気が上がってきていたツキが、これですっかり落ちてしまいそうだったからである。しかし、貴重な林檎を手に入れたはずの山口は、あの林檎をどうしまつするつもりだろうか?