面接と面談: 大学院生の指導教授選び

 アフリカから帰国してから、院生と面接をしている。ひとり30分前後である。本日もニ件の面談がある。二年制の院生を一年間指導するためである。大学院では、「オープンドア」といって、学生が指導教授を選ぶプロセスに、3週間の面談期間を設けている。


面接と面談にはちがいがある。「面接」は、こちらが聞きたいことを聞き、院生のテーマなど言いたいことを聞く。お互いに話しているようではあるが、本質は一方通行である。「面談」は、テーマ内容についてふたりで議論をする。双方向の会話である。

 面接で終わってしまった学生は、指導することがない。いままでもそうだった。面談に踏み込めないのは、相手の問題である。わたしたち教員は、学生のテーマに興味を持てば、インタビューからディスカッションに移る。
 そのタイミングをつかめるかどうかが、鍵である。何もわたしとの面談に限らない。他の先生も同じである。学生25人、対、先生20人。マッチングの仕方は、お見合いと同じだ。自分を売り込む=マーケティングすることである。
  「面談」に来た学生は、一年間、面倒をみてみたいと思う。面談=対話である。自己を主張したり、自説を展開するだけでは失格である。 例えば、指導教授になるかもしれない、わたしの関心ごとや専門分野などを調べてきている学生は「○」である。たいていの学生は、漫然と先生に会いにくる。研究が足りない。
 真剣に指導をしてほしいという学生は、準備の仕方が違っている。きちんと、このブログなどをチェックしてくる。見ていない院生はすぐにわかる。

 教訓である。仕事も人生も同じである。準備不足では、試合には勝てないのである。
 普段の心構えが大切である。成功する人間は、ふだんの生活から、用意と心構えがちがう。いつも、次に起こるかもしれない事態に備えている。
 勉強を怠らないこと、リサーチしてくること。そのためには、自分が投入できる時間を惜しまないことである。それでも、成功は保障されない。
 目の前にある快楽を笑ってやりすごせる人間は、修羅場をうまく乗り切ることができる。当面の楽しみを犠牲にする勇気がもてるかどうか。そして、思い切って、捨てることも必要である。