小川町物語、取材こぼれ話: ジャスコ四日市店時代の柳井正(現、ユニクロ社長)

 小川町物語の取材で、㈱イオン顧問の時岡あきらさん(63歳)と、昼間、市ヶ谷のうなぎや「あずまや」でうな重を食べていた。時岡さんとは、渥美先生の告別式ではじめてお会いした。「しまむらとヤオコー(仮)」で、時岡さんは第4章に登場することになっている。


2002年に、ヤオコー狭山店の近くに、カルフールが出店する。その当時の状況(カルフールとヤオコーの戦い)を伺うことが、取材目的だった。
 時岡さんは、2006年から2年間、イオンの岡田元也会長に懇願されて、3年間、赤字を垂れ流していた「カルフール」(イオン・マルシェ)の社長を務めていた。わずか2年間で、カルフール・ジャパンを黒字に転換させて、いまはイオンの顧問として残っている。ホームワイド、九州ジャスコの元社長でもある。

 さて、取材のついでにと思い、1999年のクリスマスイブに、ユニクロの柳井社長(当時、ジャスコ勤務)をインタビューしたときの話(原稿)を見てもらっていた。「しまむらとヤオコー」の第3章に、早稲田大学を卒業した柳井さんが、ジャスコ四日市店に勤めて、すぐに山口の実家(小郡商事)に帰る場面が登場する。当時、社員全員が退社する話を説明するためである。

 時岡さんも同じ時期に、ジャスコに入社していたはずである。ふたりは、年齢が2歳くらいの違いである。「もしかして、、、」と思って聞いてみた。時岡さんは、柳井さんと同じ、中国地方の岡山出身(岡山大学経済学部)である。
 「なんだ、クロスカンパニーの石川社長と同窓じゃないですか」などと話していたら、なんと、びっくり仰天! 時岡さんは、柳井さんが9ヶ月間、ジャスコ四日店で働いたいたときの直属の上司だった。入社3年目の時岡主任も平社員の柳井さんも、1972年、ジャスコ四日市店で家庭雑貨売場を担当していたのである! おー、なんという運命の赤い糸。

 23歳でジャスコの新入社員になった柳井正の当時を、時岡さんに話していただいた。
 柳井著『一勝九敗』(新潮社)によると、当時の柳井正は、「典型的にだめな社員だった」ということになっている。時岡さんが見た「柳井くん」は、たしかに、よく働く元気な新人社員ではなかった。
 柳井くんは、デニムのジーンズで出社してきていた。「あのころから、(カジュアルウエアが)好きだったんだろうね」と時岡さん。普通の社員がスーツで出社してくるのに、柳井さんはジーンズで職場に来ていた。
 時岡さんの解釈は、「たぶん、洋服が汚れるのがいやだったのだろう」だった。当時から、柳井青年は合理的に物事を考えていたのではないか。あるいは、わたしのように、単なる「田舎のボンボン」で、わがまま育ちだったのか? いまとなっては、それはわからない。
 家庭雑貨部門の仕事は、着荷するダンボールをあけて(壊して)、商品を売場に並べることだった。スーツに白のワイシャツだと、すぐに服が汚れてしまう。それがわかるから、それならば、はじめから会社にはジーンズで来たほうが動きやすいし、衣類の汚れも目立たない。
 与えられた仕事はさっさと終えて、「ダンボールの中(上?)に寝そべっていた。売場には出てこない(苦笑)」(時岡さん)。

 柳井青年は、上司の時岡さんが現場に居るときは、まったく自分から働こうとする姿勢は見られなかったそうだ。「上司がいるわけだから、「自分(柳井)が女子パート社員などに指示を出す必要などない」と柳井くんは考えているように見えた」という。時岡さんの想像である。
 ところが、時岡主任が出張などで丸一日、売場にいないとなると、柳井青年は、例えば、「朝礼やミーティングを仕切る役」をきちんとこなしていた。時岡さんは、女性社員に聞いて、あとでそれを確認していたらしい。できるのに、できるからこそ、無駄なことはやらない。とにかく、物事をクールに見る性格や態度は、そのときからだったらしい。

 さて、その後のことである。ユニクロが、広島証券取引所に上場して(1993年)、大阪に店を出し始める。そのころ、イオンで取締役になっていた時岡さんは、役員会で、イオンの岡田卓也会長(当時)に、「ユニクロというおもしろい会社が山口にあるらしい。聞くところによると、柳井という若い社長は、ジャスコで働いていたことがあったらしい。この中に、むかし上司だったものがいるかな」と突っ込まれたことがあった。
 自分(時岡)が上司だったことは、岡田名誉会長をはじめとして、もちろん誰も知らないはずだった。だから、役員会で、時岡さんは自分が上司だったことは黙っていた。「気がついた人は、岡田さんをはじめ誰もいなかったはずだ」(時岡さん)。このことは、書かないでくれと言われたが、ここで書いてしまう。

 イオンの「会社設立50周年記念パーティ」が、昨年、幕張で開かれた。そのとき、柳井さんは、イオンの岡田現会長に招かれて、幕張にやって来た。時岡さんは、柳井さんが会場に招かれて来たことは知っていたが、隠れて知らん振りをしていたそうだ。
 ところが、柳井さんが、帰り際にそばに寄ってきて、時岡さんに言ったそうだ。「(あの当時は、)お世話になりました」。
 「だめな部下」だった柳井青年は、はじめての上司になった時岡さんが、イオンで出世したこと(九州ジャスコの社長など)を、流通関係の雑誌や記事で、きっと知っていたのだろう。

 「あのときに、(柳井君を)辞めさせていなければ、今頃はイオンも、、、」と、後に岡田名誉会長は言ったそうだ。しかし、時岡さんは、「ジャスコの中だと、柳井さんはつぶされていたでしょうね。田舎に帰って、自分で思う存分やれたから、その後に成功したんじゃないかな」と感想を述べていた。
 もちろん、そうだろう。既存の組織には、絶対になじまない性格だったろうから。ジャスコをさっさとやめて、山口に帰った。それが、本人にとっては最高の選択だったことになる。
 人生とは、そんなもんだろう。柳井青年の運命の糸に、時岡さんがほんの短い間だが、触っていたのだった。