25+25+25=75:人生3分割論

明日(10月23日)、筆者はめでたく50歳の誕生日を迎えることになる。これだけ長く生きてきたのだから、堂々と自己主張をしていいのではないか。そう思って、以下のような宣言をすることにした。


迂遠になるが、筆者の性格形成に大きな影響を及ぼした事件だったので、まずは生まれたときの話をさせていただくことにする。母親がわたしを出産したあと、病院で占い師に運勢を見てもらった。なぜ産院に占い師がいたのか、その理由はつまびらかではない。そのときの託宣は、「この子は13歳で水死する」というお告げだったらしい。10歳のときにはじめて、薄気味の悪い話を母親から聞かされた。強烈な予言を意識しながら、半ばその話を信じながら、わたしは青年期を過ごした。幸いにもいまだに生き続けているのは、対立する別の神様の力が強かったおかげなのだろう。
 本題に戻る。わたしは、若い頃から遠い将来のことを考えて生きてきた人間だと思う。HPのコラム「仕事に対する時間の配分」(9月6日)で書いたように、人生をほぼ5~10年刻みで計画的にデザインし、仕事の進行具合をつねに意識しながら、長期プロジェクトの流れを微妙にコントロールしてきた。そのつもりである。たいていは思い通りに、そして幸せなことには、予言した未来のほとんどについては、現実がわたしの託宣に追いついてきてくれている。
 たとえば、1990年に法政大学の産業情報センターで刊行した「マーケティングから見た大学の未来像」(小川の講演録)に描かれている「法政大学の未来」は、ほぼ「現在の法政大学の姿」に近い。唯一の例外は、法政の受験で「割引クーポン制度」(2学部受験で受験料1万円引き)が導入されていないことくらいである。花業界の現在は、1993年に「新花卉」(タキイ種苗、現在休刊中)にわたしが書いたシナリオ通りにいまでも動いている。

 焦燥感を持って現実に対処する一方で、不確かな遠い未来にそれでも賭けてみるという自分の習性は、わが母親の”無邪気さ”のおかげである。10歳にも満たない子供が、「もしかしておまえの命は短いかもしれないのだよ」と呪文のように言い聞かせられたら、その子のその後の人生はどのように展開するだろうか? 「突然にいつ死が訪れるかもしれない」という危機感を持って生きている(小)中学生は、むさぼるように手当たり次第に本を読んだ。たぶん、きっと、依って立つ何ものかがほしかったのだろう。
 高校時代は、年間に100~200冊ほど本を読んでいた(一日200~300ページの速読である)。両親には眠ったかどうかチェックされるので(遅刻の常習犯であった)、毎晩暗がりで本を開いていた。母が購読していた「家庭画報」、父の蔵書棚にあった「吉川英治全集」、従兄弟が定期購読していた「リーダーズ・ダイジェスト」、岩波の世界少年少女文学全集、河出書房の緑表紙の日本文学全集、妹が買ってくる「マーガレット」「少女フレンド」まで、とにかく活字ならば何でも読んだ。
 友達や同僚(家族はもちろんのこと)には、「小川くん(ちゃん)はせっかちだね」と言われた。思いついたことをすぐに済ませてしまう癖がついたのは、子供の頃に自分が短命であるかもしれないと宣言されたことと決して無関係ではない。「危機の中で生きている」と本人が思っている前半生であれば、それは当然であった。いつも何かに急かされている気がしていた。

 そういう自分が50年間も生きられたのだから、「あとはお駄賃」と思うことに決めたのは2年前(47歳のとき)のことである。花業界の仲間たちと一緒に、JFMA(日本フローラルマーケティング協会)を創設しようとした時点で、そのように決意したのである。専修大学を辞して企業家に転身した「ガーラ」会長の村本理恵子さんのように、「ベンチャー企業の社長に」というお誘いも複数の企業からあった。大学では「そろそろ学部長をやるべき時期では」というプレッシャーもあった。結果、さまざまな可能性をすべて捨てて、現在はNPOの活動に全精力を注ぎこんでいる。そのときに考えたのが、「人生75年、3分割論」である。
 生まれてから25年間、たとえば、筆者の例で言えば、両親や親類、地域社会、同僚や先輩、小中高の先生などに大いにかわいがってもらった。皆さんに育てていただいたという思いがすこぶる強い。その後は、25歳の若さで法政大学の助手に就任し、35歳で経営学部教授に昇進した。有名私大としては破格の出世であった。
 研究者になってからの25年間は、国内外を問わず、友達、先生、同僚、地域の人たち、学会、業界仲間など、本当に恵まれた環境下で仕事をすることができた。そこで得た知識や資金を元手に、家族を養い子供を育てることができた。世界中を研究、調査、取材で訪問する機会を得た。それと同時に、自分の好きな研究や趣味にも没頭させていただいた。多少の苦労がなかったわけではないが、おかげさまで好き勝手にやらせてもらったような気がする。

 そこで結論である。残された25年間は、皆さんからこれまでいただいた大きな恩に報いたいと思ったのである。残念ながら、両親の片方はすでにこの世にいない。親孝行もいいけれど、それも必要だけれど、わたしの場合は、社会(学会、業界、世界の3つ)に貢献するのが、この先25年間の「おつとめ」であると決めている。仏教に由来する言葉「おつとめ」の語感・音の響きはすばらしい。宣言してしまったので、これも予言の一つになる。「願えば必ず実現する」というのが筆者の信条である。それは一生変わらないだろう。