【旅の終わり】宇和島の木屋旅館・道後温泉の旅から(1)

 夢のような二日間が終わった。高校時代の仲間と旅してから、50年ぶりで訪れた宇和島。有形文化財の木屋旅館の支配人は、ポーランド人だった。予約確認のため、出発の2日前に宇和島の宿に電話を入れてみた。電話口に出たのは、日本人ではなかった。アメニティに髭剃りが含まれていないことなどを、彼は丁寧に説明してくれた。でも、日本語が少したどたどしい。

 

 旅の初日、JR松山駅に仲良し4人組(宮本、水谷、里村、小川)が集合した。松山の駅前で軽いランチを取ろうとした。お店の選択とアレンジは、”お世話係”の水谷さんだ。ところが、水谷さんが調べてくれたファーストチョイスの定休日で、お店が閉まっていた。

 やむなくセカンドチョイスの店へ移動することになった。わたしと宮本さんは、名物の鯛めしの定食を食べることができたが、女子二人はカレー定食になった。この店では、鯛めし定食の食材が二人分しかなかったからだ。

 四国の松山は、2019年にローソンの仕事(アナザーチョイスPJT)で訪問していた。松山から八幡浜にかけて、海岸線にあるローソンの店舗を5軒ほど訪問して、店主さんにインタビューした。愛媛の人たちはおっとりしている。みなさん人柄がよい。道後温泉が繁盛しているのは、アルカリ泉質で肌によいこともあるだろうが、基本は接客サービスの良さなのではないかと思う。

 松山駅で宇和海15号を待つ間に、木屋旅館に電話を入れてみた。18時のチェックインを15時半に変更してもらうためだった。荷物を宿に置いてから宇和島観光をしたかったからだ。13時24分松山発の電車は、すでに入線していた。電話口に出たのは、外国人ではなく、落ち着いた感じの日本人女性だった。到着してから知ったのだが、彼女は2日前に電話に出たポーランド人の奥さんだった。

 

 旅行計画を立てたとき、わたしには先入観があった。松山発・宇和島行きの宇和海号は、四国の西の海岸線を走るものだとばかり思っていた。ところが、松山駅のホームを離れた特急列車からは、いつまでたっても海が見えてこない。車窓からは、緑豊かなこんもりとした山と野原が見えるだけ。

 「海が見えてこないですね」とわたしが言うと、事前調査に抜かりがない水谷さんが教えてくれた。「海岸線を走るのは特別列車で、2~3時間かけてゆっくり大洲に向かうのですよ」(水谷さん)。福岡から大分の温泉地を巡る「湯布院号」に乗ったことがある。特別列車をネットで調べてみると、湯布院号に似たクラシックな内装の列車だった。

 いつかその列車「伊予灘号」に乗ってみたいと思った。グリーン車の個室料金は、松山駅から大洲駅まで28000円。これに、特急料金と人数分の乗車券がかかる。食事も事前注文制なので、4人家族だと総額で10万円近くになるだろう。それでも乗ってみたい電車だった。

 宇和海号は、松山から直線距離を宇和島まで走っている。どうやら通勤電車のようだ。観光案内を見ると、「通勤時間帯は、けっこう混みあいますので注意」とあった。そういえば、ポーランド人夫妻は、宇和島ではなく松山に住んでいると言っていた。旅館の管理のために、夫婦二人が交替で松山から宇和島まで通ってきているらしい。わたしたちの到着日(9月25日)は、奥さんが松山に帰って、旦那さんのバルさんが宇和島に来る日だった。

 

 宇和海15号は、静かに宇和島駅のホームに滑り込んだ。14時47分の定刻着。木屋旅館までは、駅前から歩いて15分と案内にはあった。不案内な土地なので、駅前からはタクシーに相乗りすることにした。

 宇和島市の町並みは、伊予灘を挟んで対岸にある宮崎市の商店街に似ている。広い道路の両側に、背の高いヤシが植樹されている。それだけで、観光客は南国に来た気分になれる。湿度が高いことも共通だった。

 タクシーだとワンメーターで5分ほど。商店街を迂回して、タクシーは旅館の前まで走った。商店街の一番はずれの区画に、築112年の木屋旅館はあった。明治44年(1911年)開業の老舗旅館である。文豪の司馬遼太郎や首相の犬養毅などが泊まった宿だ。宇和島市が買い取ってリノベーションしたあとは、滞在型観光名所として利用されている(観光案内『宇和島本』より引用)。

 1階が三間続きの客室が一室とバスルーム。2階は、2間つづきの客室が4部屋と書斎が一部屋。歴史と風格のある建物で、一棟貸しが基本である。わたしがネットで見つけたのだが、7月と8月は満室だった。かろうじて予約ができた9月下旬に、4人のスケジュールを合わせてもらった。何人で泊っても、一泊が税込み6万1000円。

 (続く)