世の中から「新聞紙」が消える日。でも、「包み紙」としての役割は残る?

 日経新聞の夕刊の契約を解除した。夕刊の配達は、今月末をもって終了することになる。手続きは簡単だった。ネットから申し込んで、夕刊の配達を解除するだけ。10年ほど前から、日本経済新聞は、「印刷紙+ネット」の契約をしている。だから、夕刊のコンテンツは今後もネットからダウンロードできるのだろう。最終的に確認してはいないが。

 

 20年前に、毎日新聞の定期購読を辞めている。かみさんは、結婚前に立石に住んでいたころから読んでいたから、難色を示すかと思った。実際は、そうでもなかった。ここ10年は、早朝にネットから情報が入るので、二紙を読むまでもないからだろう。

 今回は、日経の夕刊を購読休止にした。辞めた理由は、いまさらながらだが、毎週土曜日の紙の処分(ゴミ出し)がたいへんだからだった。

 1990年ごろ、インターネットが普及する前に、学部の「マーケティング論」の授業で、「30年以内に紙の新聞はなくなるだろう」と予言した。小川先生の大予言のひとつだ。しかし、2023年の現在、「紙媒体の死」の予想とはちがって、大手の5紙(読売、朝日、毎日、日経、産経)は発行部数を大きく減らしながらも、どうにか生き延びている。

 

 しかし、日経を除く4紙は、予告通りにいずれに存続が困難になるだろう。最後の砦になりそうな日本経済新聞でも、そろそろ夕刊は廃止になるだろうと思っている。わたしがその先鞭を切ったことになる。夕刊の存在は、新聞の速報性にあるのだがろうが、いまやネットの記事の方が早い。わたしたち家庭は、テレビを見ないから、ますますその傾向が激しくなる。

 日経MJなども、友人や元院生たちは、わたしのように紙ではなく、デジタル配信を利用している。わが家は、この頃になって、かみさんが日経MJの記事をおもしろそうに読んでいるので、しばらくは印刷された日経MJの購読は存続しそうだ。

 

 紙の新聞が世の中から消えてしまったら、何が起こるかを考えてみた。週末に出すゴミの量がかなり減るだろうと思う。というか、すでにここ数年で、ゴミ出しの山から、新聞の比率がずいぶんと落ちてきている。お中元のシーズンなどは、段ボールの方が目立っている。

 活字としての新聞紙が役目を終えても、新聞紙の果たす役割は残るだろう。新聞紙ではない、「包み紙」としての役割は、何かに代替されるだろう。わが家は、二世帯同居家族である。3階の次男の家は、新聞を購読していない。しかし、新聞紙は時々必要になる。

 昨日も、アズちゃん(次男の嫁)が、近くの田中農園から枝豆を買ってきた。軒先で売っているので、土がついたままでの販売である。ゆでる前に、「枝」を分解する作業が必要になる。泥が付いているので、床が汚れないように新聞紙を広げる。そのため、3階から、孫たちがわが家に新聞紙を借りに来ることなった。

 

 花屋さんでよく見かけるのが、切り花を新聞紙で包んでいる風景だ。気の利いた鉢物には、わざわざ英字新聞のプリントをして紙を巻いて使っている。年末に、埼玉県所沢市の当麻園芸(元ゼミ生が経営している農場・売店)にシクラメンやシンビジウムを注文して、お歳暮替わりにしている。

 そのときに、鉢周りを包んでいる包装紙が英字新聞である。その昔は、本物の英字新聞だったが、いまは本物が入手困難と見えて、形ばかりで包装紙に英字新聞を印刷してある形式に変わっている。

 次男の家族のように、アウトドア好きな連中は、自家用車の後部座席下に新聞紙を敷いている。山歩きやキャンプをしたあとは、泥で汚れるからだ。わたしたちも、農場を訪問するときなどは、トランクに新聞紙を積んでおく。

 最後は話が脱線してしまった。新聞紙も使いようだ。