今月29日に、渋谷のセリルアンタワーで開かれる「(株)アールビーズ」(『月刊ランナーズ』を発行)の事業発表会に招待されている。「開会の前に、先生も簡単にあいさつをしてください!」と橋本治郎社長からスピーチを依頼された。これまで何度かランナーズミーティングには参加しているが、壇上で話すのははじめてのことだ。
招待の場で何を話すべきかを考えてみた。当然、わたしのマラソン歴のことを話すことになるだろう。ランニングの会社だから、大学教員の仕事や花業界のことを話しても、向こう受けはしないだろう。
そこで、思いかえしてみたのが、自分のマラソンの履歴である。マラソンをはじめるまでの10年間は、テニスを趣味にしていた。それが、ダブルスの相手を探すのが面倒くさくなったので、一人でできるマラソンに転向した。1996年、45歳のときである。
11月の白井梨マラソン(10KM)を一回だけ走って、その翌月にはホノルルマラソンを走ることにした。どう考えても、無謀なやりかたである。
月間50KMも練習では走っていなかったから、まともに完走できるはずもない。ダイヤモンドヘッドを過ぎた28KM付近から歩き始めて、5時間27分で「完歩」でゴールした。一緒に走ったゼミ生の小島覚くんも、タイムは5時間ちょっとだった。蒸し暑さを言い訳にはできない。
大学院背時代に、伊豆の戸田寮で30KMを走ったことがあったので、フルマラソンを甘く見ていた。反省をして、何年かかってもいいから、フルマラソンを4時間以内で走ることを決意した。
目標を定めたら、ストイックに取り組むタイプである。いつかは実現できるだろうと、経済学部の刈谷先生(陸上競技部・部長)にアドバイスをいただいたりして、練習に励んでいった。先生から指摘されたことは、内臓と筋肉のバランスが、フルの結果に関係していることだった。
わたしの場合は、筋肉疲労が原因で完走できないらしい。足がつってしまう癖があった。すぐさま筋トレを練習のメニューにとり入れてみた。その成果が、少しずつ表われ始めるようになった。
まずは、フルマラソンを歩かずに走れるようになることを目標に置いた。毎年、2つくらいのフルマラソンにエントリーしてみた。始まったばかりの青島太平洋マラソンと荒川市民マラソンである。このふたつは毎年のように出場した。
とにかく練習する時間がないから、代わりに月一のペースでハーフマラソンにエントリーした。最初からハーフマラソンは、1時間40分台(ベストは、黒磯ハーフの1時間37分)で走れたが、どうしてもフルは30KMから先は歩いてしまう。
歩かずに完走できたのが、マラソンをはじめてから5年後の「青島太平洋マラソン」(2001年)だった。その間でも、年間で15分ずつフルマラソンのタイムを縮めることができてはいた。
そして、7年後の2003年11月に、とうとうサブフォー(3時間57分26秒)を達成することができた。渡良瀬遊水地マラソン(当時はフルマラソン)でのことだった。
つぎに、マラソンで取り組んだのが「国盗り」である。47都道府県のハーフマラソンをすべて走ることに決めた。できれば、すべて2時間以内でと心に決めていた。
これも、2010年9月に田沢湖マラソンで達成できた。このレースには、次男の真継や元ゼミ生の女子(大野春子)、GRC(群馬レーシング倶楽部のメンバー)が一緒に走ってくれた。もつべきものは、良い友人と弟子と家族である。幸せなマラソン人生だったかもしれない。
三番目に挑戦したのが、年間でどのくらいの数のレースを走れるか?だった。2012年に毎週、年間52レースにエントリーしてみた。仕事もあるのですべては走れなかったが、この年には過去最高の41レースを走った。経営学部の学部長をやめて、大学院教授になったので、時間が豊富にあったからだ。
長くなってしまった。そんなわけで、昨日、橋本社長には、つぎのようなメールを送った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
RBSボードメンバーのみなさん
恥ずかしながら、、、
わたしのマラソン戦績をお知らせします。
45歳で走り始めて、
1 フルマラソンは、44回完走(+ウルトラ1回)
2 最高タイムは、つくばマラソン: 3:57:14(2007年)
3 「国盗り」を達成
(47都道府県のハーフマラソンをすべて2時間以内で完走)
4 東京マラソンは、第3回大会から11年連続完走
(4時間台が9回、サブフォーが2回)
5 ハーフマラソンの一歳刻みランキングの提唱者
以上、ご参考まで
おがわ