「小川先生の還暦を祝う会」@アルカディア市ヶ谷でのスピーチ(要旨)

 誕生日の前日(22日)に、大学院の卒業生たちから還暦を祝ってもらった。「派手にやらないように」と並木さん(雄二教授)には頼んであった。わたしの知らないところで、実行委員会が組織されていたらしい。



 当日は、クイズあり、劇あり、プレゼントあり、もちろんスピーチもありで、楽しかった。お花やワインなどを、たくさんいただいた。お祝いのパーティーには、80人ほどが集まってくれた。
 IM研究科の先生だけでなく、経営学部のマーケティングコースの先生たちも、会場のアルカディア市ヶ谷に駆けつけてくれた。わたしは、幸せものである。
 そして、実行委員会のメンバーと、二次会で飲みすぎて、とうとう、最終電車に間に合わなかった。船橋からタクシーで帰宅になった。
 実は、昨夜も、GRC(群馬レーシングクラブ)のメンバーと飲みすぎて(@神保町)、北総開発鉄道線の電車を乗り過ごした(印旛日本医大から、またしてもタクシーで5千円!)。

 さて、還暦を祝ってもらったので、最後に、スピーチをさせていただいた。以下は、そのときのごく短い「あいさつ」の要旨である。
 お礼の言葉のあとに続いて、つぎのように話したつもりだった。かなり酔っていたので、正確ではないかもしれない。まあ、60年を振り返ってのわたしの気持である。

   *    *    *
 18歳のとき、秋田県から東京の大学に入学した。日本でもっとも偏差値の高い大学だった。
 田舎(能代市)では、小さいころから「神童」と言われていた(笑)。お勉強ができたからだが、実際にも、全国模試(旺文社)で6位になったこともある。
 しかし、東大(文Ⅱ)に入ってみると、自分は「ふつう」(せいぜい「秀才」)であることがわかった。周りには「天才」がたくさんいた。人生のごく早い段階で、そのことに気付いたことが大切だった。しかも、ネガティブにではなく、ポジティブにそのことを感じることができた。
 それでも、現役で入学できたので、わたしには余力があった。その他の秀才たちは、東大合格が目標だった。そこのところがちがっていた。
 こどものころ、わたしは「勉強ができた」のではなかった。人一倍に、好奇心が強くて、「調べたり書いたりすることが好きだった」のだとわかった。

 そこから、ふたつのことに気を付けるようにした。まずは、人より努力をすること。
 たとえば、わたしは35冊の本を書いているが、5年に一冊の良い本(良質な仕事)を書くことより、やや雑でもいいから多くのアウトプット(たくさんの仕事)を量産するように心がけた。
 年2~3冊を出版することを目標とした。わたしのスタイルである。いつもそうなのだが、まずは具体的な目標を定める。そして、やや無理そうなハードルの高い約束を交わす。どんなに時間をかけてもいいから、目標と約束を忘れずに、いつかそれを必ず実現しようとする。
 「量はいつか質に転化する」と信じていたからだ。実際に、それが持続できたことで得られたものは多い。マラソンを走るのは、しごとを量産できる体力を作るためだった。

 二番目は、自分がふつうの能力であることがわかったので、「他人のふんどし」で相撲をとることを心掛けた。作品(本やプロジェクト)を量産するためには、ひとりの力では限界がある。
 いままで35冊の本を書いているが、編著や監修や監訳などが、他人よりもかなり多い。半分以上は、共著や共編である。それは、共同プロジェクトでことを進めてきた「量産戦略」のためである。わたしは、単著を書くことや第一著者になることには、全くこだわらなかった。
 (勲章はいらない。名誉もほしくない。いつも三番目であっても気にしない。この部分は、スピーチにはなかった!)
 すべての成果は、生きている途中経過だから。目標は、はるか彼方にあるものだし、仕事に終わりなどはない。

 最後に、だから、弟子たち(あなたたち)とも、楽しく仕事させてもらった。「一緒に仕事をすること」が目的だったのだから。とても感謝している。
 まだあと、大学教員としては10年。この先もよろしく!!