ペガサスクラブ(1962年創設)主宰者、渥美俊一氏による著作である。2004年から『チェーンストアエイジ』に連載していた同名のシリーズを著書にまとめたものである。連載時から興味深く読んでいたが、書籍の形にまとまったものを一気に読み返しみると、また違った印象を受ける。日本の流通史に燦然と輝く、行為者自らによる事実の記録である。
林周二氏の『流通革命論』中公新書(1962)の第Ⅲ章「マス・チャネル体制」に次のような記述がある。日本が高度成長を始めた46年前の予言である。
「現在ならびに将来においてスーパー・マーケット(あるいはディスカウント・ハウスなどの巨大経路)の領域に進出することを意図しつつある資本は、だいたい次のようなものが考えられる。
1 群小の小売商の共同進出
2 中小の小売資本の独力進出
3 各種問屋資本の進出
4 メーカー資本の進出
5 総合商社の進出
6 興行資本、電鉄資本の進出
7 百貨店資本の進出
8 消費者集団の進出その他
以上のうち、1の方式は零細小売商の現状離脱策として最も望ましいものであるが、零細な存在なだけに経営眼に暗く、自意識の強い、そして前むき意欲に乏しい小売経営主たちにとって、共同スーパー店への踏み切りは一般に至難であろう。(中略)これに対し、2、3の場合は、叙述の1の場合より現実性がある。」(106頁)
林先生は、この後の記述で、3の問屋資本が「スーパーの先祖になるだろう」と予想していた。現実はといえば、2の中小小売資本が独力で、日本のビッグストアとチェーン化への道を拓いた、が正しかったことになる。ただし、これには注釈がつく。資本は独立だったが、彼らの成長プロセスにおいて、とくに70年代までの初期の離陸期においては、その後に大手に成長したビッグストアの経営者の間で、相互学習の機会と時間があったことである。そうした小売経営における「社会変革運動」を束ねたのが、渥美俊一氏のペガサスクラブであった。
1962年4月、チェーンストア研究団体「ペガサスクラブ」の発足に参集した若手経営者の中には、日本を代表する小売チェーン13社(ダイエー、サンコー、イトーヨーカ堂、紅丸商事、ニチイ、岡田屋、フタギ、扇屋本店、シロ、いづみや、西川屋、コマストアー)に成長した社長たちの名前が連なっている(合併により社名は変更)。2007年現在、ペガサスクラブ所属のチェーン小売業は日本の小売販売高の24%を占めている。
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渥美氏の著作や経営指導が、なぜ日本のビッグストア(当初の定義は売上高50億円以上のチェーン小売業)の経営方針に影響を与え、日本型スーパーストア(総合スーパー業態)の構築を先導することになったのかを以前から考えていた。本書を読むことで、その問いに対する回答を得ることができた。私流に解釈をしなおしてみた。
1960年代において、中小零細企業だった個別の小売業が1店の状態からはじめて100店(チェーン化)に成長するためには、消費生活のど真ん中を狙うことが最短コースだった。当時は日本の人口重心が駅前にあった。駅前立地で、衣食住のすべてに対応するセルフサービスの大型店(当時は3層1500坪)を作り、資本を蓄積しながら優秀な人材を引きつける。日本型スーパーストアは、米国の小売業が100年をかけて達成したきわみを、わずか30年で到達しようとするための手段であった。決してその結果ではない。したがって、日本型の量販店は、渥美氏が戦略的に意図したひとつの通過点であった。
日本型のスーパーストア開発に遅れること15年で、都市郊外にホームセンターやドラッグストアが、ロードサイドには衣料専門店チェーンが誕生する。モータリゼーションに伴う立地変動に対応したものである。後発の小売・サービス業態を、渥美氏はチェーンストアの最終理想形として考えていた節がある。なぜならば、彼が主張していた「垂直的MD」(SBからPBへの流れ)と「ライフスタイル業態の提案」(渥美氏流では「TOPS」)に真剣に取り組んで成功しているのは、80年代に早々と売上高1兆円を達成したGMS企業群ではなかったからである。業態的には、カテゴリーキラーに属する専門店チェーン店だった(しまむら、ファーストリテイリング)。また、生鮮品のオペレーションを特徴とする日本型スーパーマーケットの一群(関西スーパー、サミットストアなど)は、やや別の道をたどって独自のルートを歩んでいる。
渥美氏の影響は、外食産業に及んだ。「ことぶき食品」が「すかいらーく」に生まれ変わり、ファミリーレストランが日本全国に広がった。藤田田商店が米国より「マクドナルド」を持ち込んで、ファーストフードが日本に定着することになる。ペガサスクラブの米国視察ツアーによるベンチマーク方式は、飲食業の近代化にも貢献したことになる。日本的な食生活の多様性を反映した派生形態として、競争的な外食産業グループ(モスフードサービス、吉野家、わたみ)が生まれる。今日の外食産業の基礎を築いたのも渥美氏の功績である。
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日本の消費生活を向上させるため、中小零細な小売業にイノベーションを起こす。その過程で、士農工商のピラミッドの最下層にいる商業者の社会的地位を高める。このふたつの目標を達成するために、約50年間、渥美氏は小売部門の社会変革運動を主導してきた。今日、ペガサスクラブ創設の理念は、ほぼ実現されたと考えてよいだろう。
「良い品を安く」ではじまった社会運動の核の部分には、IEの技術(Industry Engineering)があった。精神論から脱して、小売経営を科学にすることが目標だった。顧客動線調査、立地分析、作業割り当てなど、いまでは当然な手法の導入にも先鞭をつけている。印象に残っている渥美氏の言葉がある。
「私は結論を教えるのではなくて、結論に到達する方向や方法を最初に語りかけました。日本リテイリングセンター(JRC)でやってきた経営指導とは、基本的なそういうスタイルでした。私は、結論を断言する前に、調査方法を提案してきたのです。その背景には、20世紀の100年間で人類が獲得した、IE技術的な知恵があったのです。」(9頁)
ご本人に直接お会いしてことはないが、わたしの渥美氏の印象は、本書(連載)を読む前後では大きく変わってしまった。良い方向にである。経営コンサルタントとしてのカリスマ性で人物を判断していたが、社会変革の運動家として、また堅実な科学信仰者としていまは評価できると思う。生徒や社会人を指導する立場にある教育者として、渥美氏の思想性と実務家としての実践についても大いに参考になった。とくに、小売経営者と経営幹部の方々には是非一読をお勧めしたい一冊である。