“素性のわかる豆腐屋” とうふ工房わたなべ@都幾川村

先週の日曜日(5月11日)に、埼玉県比企郡都幾川村(ときがわ村)にある「とうふ工房わたなべ」まで出かけた。国産大豆で作られたお豆腐を買うためである。有機栽培農家の金子美登さんの紹介だったが、運よく店主の渡辺一美さんにお会いすることができた。小川町物語の関連取材でもある。


都幾川村は埼玉県北西部、秩父山系の麓にある水と緑が豊かな「木の村」である。あまり知られていないが、東京からはわずか1時間半。自然な風景の中にある「ちょっとしたミニ観光地」(店主の渡辺さん)である。渡辺さん一押しの絹ごし豆腐(霜里豆腐)を中心に、ざる豆腐、がんも、厚揚げ、霜里納豆、おからドーナッツなど、豆腐製品だけ2千円分ほど買いこんで帰宅した。いろいろ細工をしてみたが、やはり金子さんが栽培した有機大豆で作った「冷奴」(霜里豆腐そのまま)がいちばん美味しかった(ような気がする)。
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 店主の渡辺一美さんは54歳。二代目のお豆腐さんである。国産有機大豆でお豆腐を作っている。平成10年ごろから、スーパーへの卸売業をすっぱりやめて、現在のような工場併設の豆腐の直売店に転業した。単独の豆腐店で売上高3億5千万円は、おそらく日本一である。ガラス越しに製造工程が見られる豆腐工場をいれて、店舗面積は約600坪。なんと!駐車場が65台分もある。計算してみるとわかるが、単純平均で日販が100万円である。繁盛しているコンビニでもかなわない販売力である。
 いまでこそ繁盛店の「とうふ工房わたなべ」ではあるが、渡辺さんは当初から豆腐屋の商売を継ぐつもりだったわけではない。昭和51年に東洋大学を卒業した渡辺さんは、大学院に進学していた。会計士か税理士になるつもりだったのだが、母親が52歳で急逝するという不幸が渡辺さんを襲った。父親の商売を助けるため、渡辺さんは故郷の都幾川村に帰らざるを得なくなった。昭和53年のことである。
 昭和40~50年代(1965~1985年)は、ダイエー、IY、西友などと一緒に、ヤオコーのような地方のスーパーも急成長していた時代である。それまで「引き売り」(行商)で売られていた豆腐は、スーパーのセフルサービス商品となった。当時、豆腐屋は日本全国に2万店、埼玉県だけでも800軒あったという。
 豆腐の売り方がセルフ販売になったので、一方では納品しさえすれば商品が大量に売れるようになった。スーパーマーケットの成長とともに、地方の豆腐屋さんはスーパー向けの卸売業に転業していく。渡辺豆腐店は、ヤオコーさんなど、伸び盛りのスーパーとも取引をしたかったが、地域一番店の食品スーパーとの取引は叶わず、メインの取引先は地域の二番店、三番店であった。それでも、大店法による出店規制もあり、作れば売れる時代であった。地方スーパーへの納品で、渡辺豆腐店もとりあえず取引量は伸びていた。

 <転機:武蔵境の学校給食グループ>
 平成に入ったころから、地方スーパーの中で二極化が進みはじめた。1993年は、ヤオコーが大躍進を始めた年である。地域一番店が業績を伸ばしていく中で、押され気味の中小スーパーは経営が苦しくなった。地方でも郊外型のドラッグストアが増加したことで、低価格訴求がなされる雑貨はスーパーでは売れなくなった。地方の中位以下のスーパーが苦戦するようになった要因でもある。
 商売が苦しくなる中で、ある日、武蔵野市(武蔵境)の学校給食推進グループが、渡辺豆腐店の工場に立ち寄るようになった。小川町の有機栽培農家に、農業体験をかねて毎日曜日に来ていた援農団体のひとたちだった。そのうちのひとりが、いつも数家族分まとめて豆腐やがんもを工場で買ってくれるようになった。彼女たちが、工場の軒先で渡辺さんの豆腐を購入してくれた理由は、渡辺さんの豆腐の一部が、国産の大豆で作られていたからである。
 実は、GMO(遺伝子組み換え作物)が話題になったときに、知り合いや生活クラブ生協のバイヤーなどから、「国産の大豆で豆腐を作ってください」という要望がしばしば渡辺さんに伝えられていた。「農業=安心・安全」「食物のトレーサビリティ」が世間でうるさく言われるようになる少し前のことである。渡辺さんとしては、スーパーとの取引に矛盾と限界を感じていた。「安いという価値観からなんとか抜け出したい」と思っていた。その矢先に、豆腐メーカーとして最大手の「太子食品」(青森県)が、「遺伝子組み換え大豆では豆腐を作らない!」と、全国紙に全面広告を出した。ショックだった。
 それと同じころ(平成7年)に、埼玉県鳩山農協の農家から「大豆を1~2トン購入して欲しい」と頼まれた。輸入品よりも値段は数段高かったが、たいした数量ではなかった。知り合いの農家からの頼みだったので引き受けることにした。どうせならば、「素性のわかる」地元の大豆で豆腐を作ってみるかと考えた。
話は戻るが、豆腐は一回の生産ロットが70個単位である。生活クラブ生協のメンバーからの受注は、ある程度のロットにまとめてもらうことになった。しかし、配達が問題だった。スーパーのように、物流センターに一括して納品すればよいというわけにはいかない。渡辺さん自らが車を運転して、1軒1軒届けなければならない。父親の時代にやっていた行商の復活である。
 そうした中で、平成10年に、埼玉地方の地場スーパーのふたつのチェーン(ジョイマート、ヤマグチ)が同時に倒産した。両社ともに、渡辺豆腐店の重要な納品先であった。当時の卸販売額は、約5千万円である。工場の軒先に机を置いて、直売で国産大豆の豆腐を売り始めたばかりであった。悩んだ末に、商工会に相談した上で、スーパーへの卸はすっぱりやめる決断を下した。奥さんは、「接客をならいたい」と言い出し始めた。
 (つづきます)