塀の無い家(オープンハウス・オープンガーデン)

 『日本経済新聞』の夕刊(3月6日号)に、「広がるオープンガーデン」という記事が掲載されていた。記事を見た方は、自分の庭を一般に公開することをどのように感じられただろうか?


他人に自分の庭を見せることを自己顕示欲のあわれとみるだろうか。それとも、開かれた精神の表出と解釈するだろうか?
 英国には、「show garden」(庭を自由にご覧ください)という言葉がある。ふつうの市民の間で、自分の庭を見せることは特別なことではない。ふつうの社交的な活動となっている。毎年、ロンドンのチェルシーで開かれる「フラワーショウ」(個人の庭の展示会)がそうした運動の頂点になる。庭自慢はロンドンっ子の習わしである。それが日本でも始まったとの報道である。

 この記事を読んで、わが家の小さな庭のことを思った。田舎育ちのわたしは、子供の頃には、隣家と境目のない家で育った(秋田県山本郡羽立村)。当時としても広い家だったので、田舎の皆んなは「屋敷」と呼んでいた。母の実家は素封家であった。庭には大きなトチノキや立派な椿の生け垣などが植え込んであった。
 伯父の故珍田武蔵は趣味人だったので、客間の縁側には坪庭が配されていた。植物の名前は忘れてしまったが、潜り戸はあったように記憶している。とはいえ、武家風や町人風のいかつい門塀などはなく、隣家との境目は放ったらかしのままであった。猫でも犬でも人間でも、まったく出入りが自由だった。
 隣家との境界の作り方(垣根や門塀)が、その家の主人のものの考え方、とくに、社会との関係性を象徴しているように思う。また、子供達やその家で生活をともにするひとたちの精神の在り様に強く影響を及ぼすことになる。そのことに気がついたのは、自分が郊外に引っ越して、一軒家を構えたときである。

 18年前、千葉県の白井市(旧印旛郡白井町)に土地を購入した。翌年になって、その敷地に注文住宅を建てることになった。ミサワホームのプレハブ住宅(モジュール化された部品を組み立てる方式)であった。積み木をブロックのように組み合わる作業は、なかなか楽しいものだった。今も住んでいるその家は総二階建てである。だから、庭に利用できる敷地の面積が結構たくさんあった。車庫を除いても、20坪以上の敷地が庭に利用することができた。
 仲良しになったニュータウン造園のおじさんの手を借りて、植栽は全部自分でデザインした。一家が市川市から白井町に移った頃は、北総開発鉄道線が都心まで開通していなった。開発が始まったばかりの通勤不便な場所で、周囲の分譲宅地はほとんどが空き地だった。囲いのない状態で、わが家は一軒だけ家を建てることになった。
 想像していただけるだろうか? 移った最初のころは、敷地52坪、建坪18坪のプレハブ住宅が、他人が持ち分を持っている約800坪(16軒分)の大きな庭の真ん中にぽつんと建っている状態を。隣家までは大声を出さないと聞こえない。そんな風景がいまではなつかしい。
 住宅環境がそのような状態だったので、わたしは門も塀もない庭を作ることにした。家と庭の原型は、カリフォルニア(オークランド市)で一年間だけ住んだ「平屋」(flat)である。中年の女性オーナーは、その家のことを「シリング・ハウス」と呼んでいた。2つのベッドルームをもった家で、玄関をあがると広いリビングルームになっているという、一風変わった作りの家だった。私がとても気に入っていたのは、背の高いカウンターがついたダイニングルームである。その隣には、4人がけのテーブルが置かれたブレックファースト・ルームがつながっていた。その部屋は2方向がガラス窓になっていて、窓越しに素敵な庭を眺めることができた。高速道路の脇にあった家なので、防音装置(防音遮蔽林)として、騒音干渉用に、背の高いアカシアとユーカリの木が100本ほど植わっていた。

 わが家の庭の話に戻す。わたしは、玄関から家の軒先まですべて芝生を敷き詰めることにした。カリフォルニアの庭に習って、西側道路との境にグリーンの絨毯を敷くことにしたのである。それから、道路に面していない南北の境界には、花を咲かす生け垣にすることにした。南側の(駐車場になっている)隣家との境目には、どうだんツツジを植え込んだ。秋には白い鈴のような小花をつけて、初冬にうす緑の葉が真っ赤に紅葉する。北側の隣家との境界には、寒さに強い山茶花(サザンカ)を植えた。玄関までのアプローチに沈丁花(ジンチョウゲ)を、芝生の脇には香りが好きな木を植えた。
 ところが、わが家には、立派な門も潜り戸もブロック塀もない。西側道路との境界から、芝生をまたいで直接、そのまま玄関に到達することができる。鍵がかかっていなければ、そのまま家の上がり込むことができる。
 いまでも、近所のお犬様の何匹かは、朝夕の散歩の途中に、道路からそのままわが家の玄関に立ち寄ることがある。苦労して刈り込んだ芝生におしっこをしていく、しつけのよろしくない輩もいる。しかし、道路面に門や塀を作るつもりはない。
 ブロック塀を作らないだけでなく、生け垣で自分の家を囲わないことは、わたしの精神を表現していると考えている。そのつもりで、庭と垣根を設計した。社会に心が開かれていることをわが家のデザインは表現している。
 塀を作らなかったことで、ひとつだけ実利がある(ように思っている)。わが町も、最近になって泥棒が跋扈している。夜間のひったくりも少なくない。しかし、わが家は泥棒に入られたことがない。もちろん、お金がないのが最大の理由ではあるが、ひとつの説明理由としては、塀が無いことではないかと考えたことがある。つまり、塀がないオープンな家は、外から丸見えである。泥棒にとっても隠れる場所がないのである。だから、意外に標的にしにくいのではないのだろうか?
 さて、この説は本当に正しいのだろうか?