新年が明けて早々、すぐに破ってしまいそうな誓いをふたつも立ててしまった。「禁酒宣言」と「研究者への復帰」である。禁酒日が持てることと健全な研究生活が送れることとは、密接不可分な関係にある。
昨春、学部長に就任してからの最大の悩みは、「社会的な飲酒」(Social Drinking)の場面が増えたことである。運動は人一倍しているので、深夜にベッドの中で悶々とすることはないが、緊張状態が持続しているので、ストレス緩和のために就寝前についアルコールに手がのびてしまう。
習慣的なナイトキャップは、貴重な研究時間、とくに本を読む時間を奪ってしまう。この状態から逃れることが、今年度の第一目標である。かつて経験した楽しい乱読の時間を取り戻したい。
幸いにも、正月の三が日は、小説、専門書、論文を手当たり次第、気の赴くままに読んで考えごとをする時間が取れた。そんな中で、昨夏から貯まっていた学会誌(「マーケティング・サイエンス」)のレビュー論文をふたつ片づけた。また、今春発行予定の「ブランド本(仮)」同文館出版の編集作業を終えることができた。久しぶりにまとまった仕事をすることができた後で、頭脳が爽快に喜んでいるのがわかる。掛け値なしに、とってもうれしい。こうした時間を持てることは、時間多消費型の人生を歩むことを選んだ学者冥利に尽きる。
正月休みの2日間、学会誌の編集長として、投稿論文を査読した感想は、以下のようなものであった。ここから先は、少しばかり話が重たくなる。ご勘弁を願いたい。
たぶん自分もそうであっただろう。若手の研究者が論文を書くときに陥りがちな失敗には、二通りの傾向がある。これに気がついてくれれば、わたしたちエディター連中は、無駄な時間を費やさなくてよい。若手研究者たちには、早めに気がついてほしいのである。
最初の罠は、「専門馬鹿」になり切ってしまうことである。学術論文を書くときと普段の物書きの場合とで、本質的には何らの違いもない。自分の言いたいことを、平易にかつ分かりやすく伝える努力と姿勢は同じである。専門雑誌向けの論文だろうが、一般紙から依頼されたエッセイだろうが、本来あるべき「常識人の私」を置いてきぼりにしておいてよいわけがない。
学術論文には、確かに分野独特の作法がある。そこは、テクニカル・ターム(専門用語)に充ち満ちた世界である。だから、多少持って回った物言いであろうが、自分の言葉や表現は、ごく近い専門家には理解可能な範囲にあると考えてしまいがちである。
ところが、現実はそうとも言えない。本当の意味で専門性を求めるとなると、簡単に事が通じ合う仲間はそれほど多くはないのである。ひとつの分野で、せいぜい30~40人程度であろう。専門分野がちょっとでもちがうと、特殊な概念や表現はもはや通用しない。
論文の評価者として、筆者が多用しているコメントがある。「あなたは、奥さん(旦那さん)に自分が書いた論文の内容を手短にうまく伝えられますか?」。究極の殺し文句である。自分もかつて、遠慮会釈がない”無垢な連れ合い”から、事もなげにこの”手投げ爆弾”を投げられて往生したものである。この要求に応えられないようであれば、学術論文を書く資格がない。受理されたとしても、その論文は二流であると心得た方がよろしい。
若い研究者が抱える二番目の問題は、問題の記述が抽象的にすぎることである。理論や方法は、一般的にはきわめて抽象度の高い表現を必要とする。理論仮説や一般命題のためには、テクニカルな記述を含んだ抽象的な言語表現や記号操作を避けて通れない。それだからこそ、門外漢が読んでも直感的に理解できるような工夫が求められるのである。
例えばであるが、(1)抽象度が高い数式表現を用いるときは、具体的なデータを示すことで読者の理解を助ける、(2)複雑なシステムや命題群を記述するためには、直感的なイメージを刺激するために図表(チャート)を用いるなどである。場合によっては、(3)誰にでもわかる比喩や事例を用いるのもよい。どんな場合でも、「専門家」として、一般の人たちが理解できる水準に降りていく親切さを持つことである。
一流の研究者が書く論文は、例外なく具体的で平易で読みやすい。本質をついた議論は、実は単純明快なことが多いからである。余計な枝葉末節を省いて、エッセンスだけを過不足なく示してくれる。それとは逆に、並の研究者が書く論文は、結論にたどり着くまでの回り道が長い。持って回った言い方は、議論の組み立てに自信がない証拠でもある。