岩塚製菓の主力工場を視察 ~ 子供のころに田舎でよく食べた、短冊状の炙り餅と同じ作り方でした!

 岩塚製菓の創業史を描いた『米を洗う』(幻冬舎)の著者、友人の辻中俊樹さんに誘われて、新潟県長岡市の工場を見学させていただいた。到着後、本社で槇春夫社長と大介専務に挨拶をいただいた。夕刻からは、田中角栄元首相がよく利用していた割烹にて、中静幸徳ソーシャルコミュニケーション室長を交えて5人で会食をした。立派な庭の料亭だった。

 

 米菓製造の工場見学のメインは、主力商品の「田舎のおかき」を製造する自動化ラインの視察だった。製造ラインは、生地を作る第4工場(BEIKAラボ)と、生地を焼いて包装するまでの工程(第2工場)に分かれている。第4工場の自動化ラインで作った生地は乾燥工程で水分を抜いて、第2工場に送り込まれる。

 型抜きをされた生地からゆっくり時間をかけて水分を抜くため、わざわざ3回の加温乾燥工程を繰り返す。糯米(もちごめ)から作るおかきは、うるち米から作るお煎餅よりも数倍の手間がかかる。粘り気のある糯米の場合は、ある程度の厚さに成型しようとすると水分が抜きにくくなるからである。

 そのため、亀田製菓などの他社は、糯米から作るおかきを量産するのをいやがる傾向がある。とはいえ、全国に米どころがたくさんあるにもかかわらず、新潟県が米菓製造で上位企業を独占しているのを不思議に思っていた。その謎が昨日の視察で解明できた。

 特別なことが起こったわけではない。世の中ではよくあることだった。たったひとりの指導者(加茂市の斎藤先生)の存在が、秋田県や富山県ではなく、新潟県を米菓製造のメッカにしてしまったのである。

   

 田舎のおかきの製造ラインを見ていて、わたしは既視感(デジャブ)を感じた。秋田の田舎で、子供のころによく似た作業風景を見ていたからだ。小学校に上がる前のことである。場所は、秋田県山本郡字羽立。

 母親の実家は地主だった。母親の家族はそのころ、大きな大黒柱のある茅葺屋根の家に住んでいた。土間で蒸篭(せいろ)で蒸かした大きな座布団サイズのお餅を、おばあちゃん(珍田サン)が短冊サイズに切っていた。乾燥した餅には、蒸篭で蒸かす前に紅(赤、青、黄色など)をつけていた。糯米の短冊を稲わらで数珠つなぎにして、裏にあった蔵の天井からぶら下げておく。

 自然乾燥した餅の表面からは粉が吹いてくる。子供のわたしたちは、乾いた短冊状の餅を、囲炉裏や七輪で炙って膨らませた。途中でタイミングを見計って、お餅にお醤油を垂らすと香ばしい「醤油もち」の香りを発する。昨日、飯塚工場のラインで見た田舎のおかきの製造風景は、珍田のサンばあさんが土間で作業していた工程を自動化したものだった。

 手作業と自動化ラインの違いはあるが、おばあちゃんの手作業の工程と自動化ラインの動きはほぼ同じだった。糯米を浸水させてから、時間をかけて蒸篭で米を蒸かす。座布団状に成型した餅生地を、大きな鉈で短冊状にカットする。それを砂糖醤油に浸してから、囲炉裏や七輪で短冊状の餅を火に炙りながら膨らませる。

 そういえば、途中でお餅が膨らんで破裂することもあった。ときどき手のひらや舌を火傷したものだ。

 

 昨日は、担当の工場長さんから丁寧な説明を受けた。おもしろかったのは、複数のブランド糯米(もちごめ)をブレンドする工程があることだった。単一の産地ブランド米を洗って、浸水させて蒸すのだとばかり思っていた。実際は、最初に複数の品種をブレンドしてから浸水させるのだった(米を洗う工程)。場合によっては、3か所の産地米をブレンドすることもあるらしい。

 サイロが3つあることを確認できたが、新潟産だったり秋田さんだったりする。産地によって糯米のクオリティが微妙にちがうのだろう。単一の品種だと、年によって土壌や水の回り具合で作柄がちがったりするから、ブレンドして平均的な品質に落とし込むことで、品質保持のリスクを小さくできる。

 製造工程では、黒ずんでいたり端っこが欠けていたりする「くず米」が検出される。センサーではじかれるロスが、0.1~0.3%ほどは出るらしい。この比率は、品種や産地、ブレンドするロットによって異なるとのことだった。

 

 驚いたのは、ベルト状の餅生地を伸ばして短冊状にカットする工程を見たときだった。よく見ると、穴の空いた生地やひも状のものやら、端材が30%も出ている。いったんラインから外れた端材は、再度、元に戻して練り上げたばかりの餅生地に再度投入される。

 この風景もどこかで見たことがあった。そうだった。生地を再投入する様子は、ラーメンチェーンの幸楽苑(福島県)や日高屋(埼玉県)の工場で見た、餃子の皮を打ち抜いてあんこを充填する工程にそっくりだ。クレープの生地のように丸く広げた薄いシート(餃子の元の皮)を、切り口が丸い刃物で上から打ち抜いていく。空いた丸い穴の真ん中に、上から餃子のあんこが落ちてくるという仕掛けだった。

 複数の丸い穴を同時に撃いた残りのシートは、まるでレンコンの切断面のようになる。そのシートを再度、クレープ状の薄皮シートを作る前工程へ再度、原材料として再投入されていた。端材をリサイクルするやり方は同じだった。

  

 製造工程の話が長くなった。もち米を使用しておかきを作る工程は、時間と手間がかかる。だから、他社はあまり手掛けたがらないらしい。それはそうだろう。生産管理については素人のわたしが見ても、岩塚製菓の作業ラインは複雑である。けっこう制御がむずかしそうだ。

 しかも、お米もサイズや組成や含水量が様々で、材料が一定ではなさそうだ。微妙な感覚で(ここは勘が働かないとだめそう)、温度や水分を数値制御していくのだから、工程管理者は気が休まらないだろう。

 昨日のわたしは、いちばん難易度が高い自動化ラインを見せてもらったのだと、見学の後で気が付いた。うるち米でお煎餅を作る工程は見せてもらわなかった。しかし、糯米を原材料にしたおかきのラインほどに複雑ではないことは、わたしでも想像できる。白いご飯と赤飯を食べる時を想像してみたらよいだろう。粘り気も水分の含有量も、明らかに白いご飯のほうがコントロールしやすそうだ。

 

 ところで、20年前に経営学部の最終講義(学部から大学院に移籍したときの「マーケティング論」)で、食の未来について予測をしたことがある。そのときの「大予言」のひとつに、食料自給率37%の日本国が近い将来において(21世紀中ごろまでに)、世界でナンバーワンのコメ輸出国になるという預言があった。

 20年後のいまでも、この大胆な予想は当たると確信している。実際に、ロシアのウクライナ侵略戦争がはじまって、重量当たりで小麦の価格がコメの価格を上回るようになった。わが国での長期に渡る品種改良の努力もあって、米の生産性は上昇しつつある。品質も良くなってきている。

 増産効果でコメが余っているが、それは日本国にとって良い兆候だと思う。われわれにエネルギーを供給する基礎的な食物原料としてだけではない。美味しい嗜好品として、日本のコメが世界から注目を浴びているのである。

 岩塚製菓が「米を洗う」(米粉の状態で原料を調達しない)のは、せんべいややおかきを美味しく作るためである。そうであるならば、別カテゴリーの米加工菓子を開発してマーケティングする可能性もあるのではないかと、長岡の工場を見学しながら考えていた。

 

 たとえばの例である。落雁のような菓子には、すでに着手してブランドも存在している。それに加えて、米を原料にした焼き菓子のような和菓子(もどき)などを手掛けることができるのではないだろうか? 米どころ新潟を拠点としている岩塚製菓は、この先も米から離れることはないだろう。

 国産の美味しいコメを米菓の原料として使用することは当然のだろうが、挑戦すべきフロンティアがもっとあるように思う。カップヌードルで有名な日清食品の若社長さんがいま、健康志向の「完全食」の試作品を世に問うている。現状否定から生まれたアイデアである。

 岩塚製菓も同様である。米菓のカテゴリーから少し離れて、新しいジャンルの米加工品の商品開発に挑んでみてもよいのではないだろうか。「コメ・ルネッサンスの時代」だからこそ、手慣れた既存の市場を超えて、いまは存在していな新しい分野にチャレンジしてもよいのでないだろうか?

 

 最後に、岩塚製菓がベンチマークすべき企業を一社だけ挙げておく。群馬県前橋市に本社がある「相模屋食料」である。日本最大の豆腐メーカーは、最近になって業績不振の地方の豆腐屋を買収したり、事業の立て直しに協力している。グループ売上高が1000億円に迫ってはいるが、非上場企業である。

 娘婿の鳥越淳司社長は、元雪印乳業の営業マンである。とうふの製造工程を抜本的に変えてしまった。ロボットを導入して製造ラインを完全自動化してしまった。また、若い男性をターゲットにした「ザクとうふ」(枝豆入り)や、若い女性ターゲットの「マスカルポーネのようなデザートとうふ」(はちみつをかけてスプーンで食べる)などの商品開発で大ヒットを飛ばしている。

 実は岩塚製菓のせんべいの製造ラインと、相模屋食料のとうふの製造プロセスは酷似しているのである。大きなちがいがある。それは、商品開発の方向と発想の違いである。逆に、わたしの目から見ると、そこに新しいチャンスがあるように思う。