さきほど、長男夫婦が子供たち2人を連れて、神戸から白井に到着しました。夜中の3時に神戸を出て約10時間、東名高速を飛ばして千葉の実家へ帰省。疲れたとは思うのですが、その途中で長男がむかし野球の練習をしていた公園に寄ってみたようです。鯉のぼりの写真が3枚送られてきました。
今日は、こどもの日。たくさんの鯉のぼりが公園で泳いでいるのを発見して、車を止めたらしいのです。なつかしくなったのでしょう。家族LINEに送られてきたのは、二人の子供を連れて公園を散歩している写真でした。鯉のぼりが泳いでいるロープの下で、家族全員(3人)の写真が三枚。
公園はそのむかし、新しく開校するはずの中学校の予定地だったのです。少年野球チームの間では、「富士中グランド」と呼ばれていました。もちろん、富士中は名前だけで、永遠に開校されることがありませんでした。
千葉ニュータウンの開発が思うように進まず、わたしたちが引っ越しをした時点で、すでに10年ほど更地のままに放置されていました。野球の練習には絶好の広さで、ほどよく芝生が生えた理想のグランドでした。お役所のやることなので、その後も30年以上、いまでも原っぱのままです。恐ろしいお役所しごとですが、よいこともあります。
わが家もそうだったのですが、子供が大きくなると、鯉のぼりは行き場を失います。ニュータウンに住んでいる家庭は、自治体に寄贈するのです。だから、主人を失ってしまった鯉のぼりにとって、こどもの日は、年に一度だけ外の空気を吸うことができるチャンスなのです。
この広場が住宅地になってしまうと、鯉のぼりたちは外に出られる唯一の日を失います。湿った倉庫の中で窒息死してしまうのです。ただし、本日は微風をうけて、鯉のぼりたちは実に気持ちよく泳いでいたのでした。
ところで、長男から最初の写真が送られてきた数分後に、追加で一枚の写真が送られてきました。「うちの鯉のぼり、見つけたよ!」とありました。長いロープの一番端っこに、三匹の鯉のぼりが結びつけられています。一番左にいる大柄な黒い鯉のぼりには、わたしもなんだか見覚えがあるのです。
向かって左から大柄な黒色の鯉のぼり、真ん中が中くらいの赤色の鯉のぼり、右端がいちばんちびの青色の鯉のぼりです。信じられないことなのですが、息子の見立てでは、この三匹はわたし達が白井町に寄贈した鯉たちなのだそうです。大きな原っぱには全部で100匹は泳いでいます。一見して同じような色柄のようですが、由には見分けがつくらしいのです。
「ほかのは、だいたい寸胴なのよ。うちのは、頭としっぽの両端がしまっていて、スタイルがいいからわかるの」
思い入れがあると、鯉のぼりの微妙なちがいがわかるものなのだ。すごい!!
逆算すると、わが家に鯉のぼりが旗めいていた期間は、長男が5歳から12歳までの7年くらいでしょう。鯉のぼりが庭に飾れたのは、10年はないはずです。鯉のぼりのポールを立てて、さほど広くもない庭で鯉のぼりを泳がせていたのは。
そのあとは、空き地になっていた周りの区画に、新しい家がどんどん建ってきました。遠慮しながら、その後の5月5日は、数日間だけポールを立てていました。隣りの屋根に鯉が絡まるようになったりで、どうにも不自由になってきました。
やむなく下の子が中学に入るころに、三匹をセットにして市役所に引き取ってもらいました。どんな絵柄の鯉のぼりだったのか、わたしはほぼ忘れかけていました。
ところが、今日は一瞬で、「これは自分んちのだ!」と、長男は鯉のぼりの元の所有者であることを、自慢げに子供たちに示したのでした。あの子が小学校に入学する少し前に、たぶん5歳だったはずです。秋田の実家から鯉のぼりを送られてきました。その箱を見るのが、長男はそうとうにうれしかったにちがいありません。
そして、今日は子供の記憶の凄さを目の当たりにして、実にびっくりしました。もしかすると、あの子は、町役場に引き取られていく鯉のぼりを見るのがさみしかったのかもしれません。 親のわたしは、今日の今日まで、そのことに気が付かなかったのです。
この後で、長女が帰省していくると、家族全員が揃うことになります。二年ぶりのことです。長男には、食事のときに当時の気持ちをたずねてみようかと思います。