IM研究科の「マーケティング論」の授業中で行われた橋本治朗さんの講義録をアップする。タイトルは、「ランナーズ スポーツビジネス起業とこれから」。青木恭子(リサーチアシスタント)がまとめてくれた。
法政大学経営大学院 IM研究科 2015年春学期「マーケティング論」
特別講義4
ランナーズ スポーツビジネス起業とこれから
~ランニングマーケットに見る
株式会社 ランナーズHD
代表取締役社長 橋 本 治 朗 (はしもと じろう)氏
日時:2014年7月9日11時10分~12時50分
於:法政大学経営大学院101教室
講 演 要 旨
講師略歴
橋本 治朗(はしもと じろう)氏
1947年生まれ。熊本出身。法政大学社会学部社会学科卒業。在学中はカメラ部に所属。卒業後、写真事務所を開設し、フリーランスカメラマンとして、『文藝春秋』、『アサヒグラフ』などに写真掲載。
28才で㈱ランナーズ設立、雑誌『ランナーズ』創刊。以来、ネット事業やマラソン大会の計時・運営事業等へ業容を拡大し、日本におけるマラソンの拡大に貢献。
現在、㈱ランナーズホールディング、㈱アールビーズなど関連4社の代表取締役社長。一般財団法人アールビーズスポーツ財団評議員。
講師紹介
(小川孔輔教授)今日は、ランナーズの橋本社長をお呼びした。橋本さんは、日本のマラソンブームを仕掛け、大きくしていった立役者だ。その橋本さんご本人から、起業以来の取り組みや日本のランニング市場について、お話しいただく。
橋本さんとは、7~8年前に何かのきっかけでお会いして以来のお付き合いである。橋本さんが法政の社会学部の卒業生と知って、私から電話した。大学院でも、数年前に、同じマーケティング論の授業で、講義をしていただいた。
橋本さんの会社では、雑誌『ランナーズ』を出しておられる。実は、私も3回ほど登場させていただいたことがある。
講 演
1.はじめに
(1) 前置き
ランナーズは、創業して40年になる。今日は、
①40年で何が成功し、何が失敗したか
②何が理由で40年会社が存続したのか、
③次の10年、20年何をしようとしているのか、
この3点について、話す。
(2) ランナーズ立ち上げ以前:写真家としてスタート
まず、ランナーズを始めるに至った経緯について触れておきたい。
私は、熊本県出身で、法政大学社会学部社会学科を卒業した。法政大学ではカメラ部に入っていて、学生の頃から写真を撮っていた。出版社に売りこんだら、けっこう使ってくれたので、大学3~4年の頃から、写真の仕事をしていた。
就職では、新聞社に行きたかったが、行きたかったところには落ちてしまった。ある新聞社に行ったが1年で辞めた先輩がいたので、一緒にフリーランスの写真家になった。
(3) 40年前に皇居マラソン、ランナー仲間とともに雑誌『ランナーズ』創刊
こうして、しばらく写真家としてバリバリ働いた。そのうち、下条由紀子という女性と知り合い(編注:後、結婚。雑誌『ランナーズ』創刊編集長、現在、ランナーズHD傘下の㈱アールビーズ専務取締役)、彼女がマラソンをやっていたので、一緒に皇居周辺を走り始めた。40年前、1970年代のことだ。そのうち、だんだんランナー仲間が増えていった。
その頃は、市民マラソンと言えば、青梅マラソンくらいしかなかった。青梅マラソンの参加者募集は、報知新聞でしかやっていなかった。青梅に出たければ、ずっと報知新聞を読み続けなければいけない。「これしかないの?」と不満に思っていた。
仲間は皆若かったので、「それなら、自分たちでランナー向けの雑誌を作ろう」ということになった。知り合いの米国人が、『ランナーズ・ワールド』というアメリカの雑誌を持ってきた。創刊されて間もない頃だったが、その雑誌を見ていると、日本でもそういう時代が来るかもしれないと感じた。
皇居のマラソンの写真を撮って、文藝春秋の岡崎満義さんのところに持っていった。岡崎さんは、後に『Number』の初代編集長になった方だ(編注:正式名称は『Sports Graphic Number』、観戦者向けのスポーツ誌)。「マラソンはおもしろそうだ」ということになり、取材でボストンマラソンに行くことになった。
ボストンで、生まれて初めて市民ランニングの世界を知り、とても驚いた。仲間もいるし、日本でも何かやろうということで、雑誌を始めることにした。こうして、下条が編集長になり、1976年に『ランナーズ』を創刊した。
始めたものの、お金もないし、書店に置いてもらおうとしても、取次には断られた。取次は、今でこそ潰れる会社も出ているが、当時は威張っていた。ちょうど『ぴあ』が創刊された頃で、知り合いから、雑誌を直接扱ってくれる書店を教えてもらって、持っていったりしていた。
こうして、なかなか相手にしてもらえない中で、持ち込みで実績を作っていき、取次にも頼んだ。そのうち、都内の書店の支配人をしている知人にお願いして、取次に電話してもらったらOKをもらい書店に置いてもらえるようになった。「世の中は、こんなふうに動くものなのか」と思ったのを覚えている。
(4) ランナーズの成長
僕たちが『ランナーズ』を始めた頃、ベースボールマガジン社もライバル誌を出そうと考えていた。1976年当時、こちらの売上はほんの少し、ベースボールマガジン社は、売上高100億円企業だった。
後で詳しく説明するが、そういう状況でも、僕たちの会社は、5~6年で売上が倍になるくらいのペースで伸びていった。1985年の大会計時、1988年イベント開始、1990年代半ばの大会ネット申込開始、2000年代には東京マラソンスタートなど、いろいろなエポック的な出来事を経ながら成長してきた。無理がないスピードで、成長できたと思う。今期の売上は、55~56億円になる。
他のスポーツ団体やイベントと比べてみると、スポーツの市場で、単体で最も大きい集団は読売巨人軍で、売上高は240億円に達する。Jリーグが、単体平均で約40億円、東京マラソン財団が30億円くらいである。
2 RBSの40年で何が成功し、何が失敗したか
ランナーズでは、40年の歴史の中で、いろいろな事業を手がけてきた。
成功した事業として、雑誌『ランナーズ』、イベントおよび計時ビジネス、RUNNETというネット事業の3つがある。すべて、日本で初めて起こした事業である。それぞれについて、初期から現在の状態を比較し、成功要素(人・人脈、戦略・戦術、ノウハウ・スキル、競合)は何だったのか、考えてみたい。
(1) 成功①:月刊『ランナーズ』
雑誌『ランナーズ』は、初期の発行部数は5,000部だったが、現在は18万部にまで伸びた。日本初のマラソン専門誌として立ち上げ、多角化戦略を進め、ノウハウやスキルを持つ人材を豊富に抱えてきた。成功の鍵は、話題性、コスト、信頼性だったと思う。
人という面では、スポーツ雑誌で女性編集長ということ自体、話題性に富んでいた。
コストも低かった。編集会議は私たちの部屋で開いていた。やっているのは皆ボランティアで、原稿料も少なかった。発送も身内にやってもらった。
また、読者からの信頼性の確保にも努めた。最初、『ランナーズ』は、書店が置いてくれないので、年間購読制にしていた。それで、編集顧問や編集委員には、有名な先生方に名を連ねていただいた。順天堂大学の石河利寛先生をはじめ、大阪私立大学の井関敏之先生、東京学芸大学の小野三嗣先生など、当時の運動生理学等における権威の先生ばかりである。下条のような20代の女性が頼みに行くと、「それなら一肌脱ごう」ということで、先生方が編集顧問になってくれた。私が行ったのでは駄目だっただろう。
(2) 成功②:計時ビジネス
イベント運営も、成功を収めた事業分野である。大型大会運営事業のシェアは、95%に上る。
ランナーのタイムを測る計時という分野では、RECSという会社を立ち上げ、世界最高レベルのノウハウと技術を持っている(編注:RECS(レックス)は、ランナーズHD傘下の企業で、世界No.1の実績を誇る「タイム計測専門企業」。1992年に独立会社になり、マラソン大会の記録計測をコンピューター処理する事業を展開している)。
タイム取得率は、99.99%である。米国の大会でも、タイム取得率は98%くらいということもあるようだ。つまり、100人走ったら、2人のタイムは計測できず、記録から落ちるということである。ランナーズでは、東京マラソンでタイムを取れなかったのは、3人のみである(編注:東京マラソンの出走者は10 km、車いす含め、約3万5,000人)。これをアメリカ人に言うと、非常に驚いていた。
ここまで高いタイム取得率を達成しているのは、常に新しい技術や手法を取り入れ続けてきたためである。
1976年頃の米国のマラソンの状況を見ると、ゴールの近くで、ランナーのタイムとゼッケン番号を、手で記入している。たくさんゴールすると、待たせているうちに、ランナーの列ができてしまい、並んでいる時間も、オフィシャルタイムに入ってしまっていた。
こういう状態から始まったが、ランナーズでは、早い時期にバーコードを取り入れた。ゼッケンにバーコードが打ってあり、ゴールでバーコード部分をもぎって、串刺しに差していく。そして、レース後、バーコードを順番に読んでいくという方法で、計時をしていた。
時計については、セイコーなどが、タイムデータを取れるシステムを開発していた。バーコードとマッチングしながら、一晩かけて、3,000人くらいの参加者のタイムを出していた。
その後も、RFIDをはじめ、最新の技術の導入を進めてきた(後述)。
(3) 成功③:RUNNET
ネットのRUNNETの運営も、成功した事業の一つである。RUNNETは、オンライン大会エントリーシステムで、ランナー仲間のポータル・交流サイトになっており、現在、200万人もの登録者がいる。毎年20万人増加している。
1996年に立ち上げたが、最初から、社内にシステム開発担当を置いた。出版社としては、非常に珍しいことだった。普通は、外注することが多い。
RUNNETでは、編集の人脈が役に立った。メディアの特性は、情報と人が集まるというところだ。それが、ネット事業でも効いた。
ネットの成功は、ニーズの開発にもつながっていった。たとえば、マラソン大会というのは、キャンセルができない世界だったが、今では、ネットで代わりに走る人を探せる「出走権譲渡ゆずれーる」というサービスを立ち上げている。
キャンセルや交代ができなかったのは、Tシャツのサイズやゼッケン情報を変更することが難しかったからである。Tシャツは走る人のサイズに合わせて発注しなければならないし、ゼッケンに印刷されている氏名などの情報はすべてパーソナルなので、走者が変われば作り直さないといけない。
しかし、4年くらい前に、ゼッケンのデジタル印刷機が登場して、状況が変わった。当時日本には4台しかなかったが、ランナーズは2013年に導入した。これは、プリンターの親分のようなもので、紙の質を問わず印刷できる。
デジタル印刷機があれば、3万人の参加者に、3万人通りのゼッケンが作れる。東京マラソンのゼッケンなら、1日半で印刷できる。
(4) 新しい技術導入の歴史
ここで、ランナーズにおける、新技術導入の歴史を振り返ってみたい。
①オフコン導入
1979年には、通販管理業務を効率化するため、NECのオフコンを導入した。昔は、発送物の宛名は、ガリ版でいちいち印刷するしかなかったが、オフコンでラベル打ちができるようになった。
フロッピーベースのオフコンは、1975年頃に出てきた。ベンツ2台分くらいの値段で買ったものの、稼動するのは月に2日間だけである。それで、活用の仕方を考えた。当時、マラソン大会のエントリー代金の支払いは、現金書留で行われていた。そこで、大会エントリーへの活用を思いつき、1985年にサービスをスタートした。
② パソコン活用
1979年頃、NECのパソコン「PC8000」シリーズが発売された。これもいち早く導入した。しかし、1つ問題があった。フロッピーには1枚に2,500人分のデータしか入らない。1万人のマラソン大会なら、4枚必要になる。各参加者の登録の順番とゼッケンの番号とは異なり、別々のフロッピーディスクに情報が入っていると、そのままではデータをまとめて処理することができない。そのため、名前と記録で名寄せし、受付順に並べ直し、ゼッケンを振るという作業をしなければならなかった。
③ バーコード読み取り機~RFID活用
こういう不便さをなんとかしたいと思っていたところ、バーコード読み取り機が発売された。それを使って、1985年にゼッケン読み取りを始めた。
そのうち、RFIDという技術が生まれた。ランナーズでは、1995年には自動チップ計測機を入れ、完全自動系でタイムが計測できるシステム作りを進めた。
④ ネットの利用開始
1994年に、京都シティハーフマラソン大会が始まった。初回は、12,000名が参加した。当時、そういうイベントの運営ができる会社がなかった。これをきっかけに、ランナーズに話が来るようになった。
前年の1993年には、郵政省がネットの商用利用を許可した。1994年には、RUNNETを作った。ヤフーが始まったのとほぼ同時期だった。
翌1995年には、マラソン大会のネット申し込みサービスも開始した。
振り返ってみれば、ランナーズのビジネスモデルの原型は、もう1985年ころの時点でできていたと思う。ハードやソフトウェアは、その後、我々のモデルに付いてくるようにして発達してきた。
3 失敗した話
成功例だけではない。40年の間には、失敗した事業もいろいろある。
(1) 失敗①:マラソン以外の出版物
出版では、トライアスロンやアスレチックの専門誌も出したが、あまりうまくいかなかった。下条のような編集長に恵まれなかった。雑誌は編集長で決まる。
(2) 失敗②:映像「ランナーズビジョン」
映像事業として、「ランナーズビジョン」を始めたが、これも人脈、ノウハウやスキルがなかった。映像にはかなり投資した。インターネットは、いずれ映像に広がると思っていた。スポーツと映像は、親和性が高い。それで、15年前に、スタジオや調整室を作った。将来、スポーツのCSチャネルを持つことも視野に入れてのことだった。それで、コンテンツが不足しないよう、中身を固めておこうと考えたわけである。
側面がLLDのパネルになっている車も購入した。「ランビジョン」といい、2億円もした。競馬場などで中継して、1日出せば結構なお金になった。しかし、結局、収入は年1億円を超えなかった。
結局、収支を考えると合わないので、映像事業は止めてしまった。我々は質を重視したが、ネット普及以来、映像は無料という流れがあり、お金が取れる仕組みが作りにくい。また、ランビジョンはせいぜい半径100mくらいの観衆が見るだけだが、映像ならスマホでどこででも見られる。それで、もうだめと思った。
(3) 失敗③:ランナー用施設「ランナーズステーション」
ランナーズステーションというのは、シャワーや着替え用の設備を備えた、ランナー用の施設である。数年前に法政大学のこの同じ講座で講演したときには、“自慢”して話した記憶がある。しかし、今は、失敗例になってしまっている。利用者は、オープン後の月8,000名から、最近は3,000名にまで落ちている。今は、ビジネスを持ち込まない、ランナー用のPRセンターにしている。
ハコモノのビジネスは、コピーされやすく、しかもオリジナルで差別化する余地がない。ハコモノの運営には、出版などとは別のノウハウがある。今、こうしたランナー用の施設は、皇居周辺だけで、24軒くらいできているが、キャパシティから言えば、5~7軒くらいだろう。供給が多すぎる。
ステーションは、内装だけで7,000万円かかっている。シャワーは何人もが同時に使うので、水道は本管から引いてこなければならない。水回りには、お金がかかる。
競合するステーションは、手もみで有名な会社が運営している。そういう会社はいろいろな業者と取引があり、施設を安く作れる。利用料は、そこは500円だが、うちは700円だ。投資金額で、すでに勝負がついていた。コスト的に勝負にならない。それで、箱モノはだめということがわかった。
(4) 失敗④:イベント「カラーラン」
カラーランというアメリカで流行しているイベントが日本で開催されることになり、その運絵に携わった。それなりの収益があったが、欧米のイベントは細かな契約条項がたくさんありなにかあったときの裁判はアメリカ現地等難しい条項があり、結局続けるのを辞退した。最初から詳細を詰めて始めるべきだった。
(5) 失敗⑤:通販
通販も、一時は黒字化していたが、結局はこれも赤字になっている。Amazonのような競合が出てきて、それらに対抗していくには人脈やノウハウが足りなかった。今年後半には新しい取り組みに変える。
4 何が理由で40年会社が存続したのか
最後に、40年間会社が続いてきた理由は何か、考えてみたい。
(1) 常に先頭を走る、ダントツのトップ、積極的IT対応
まず、世界の情報に通じて、常に先頭を走るということである。それもただの先頭ではなく、後から来る走者が、前のランナーが見えないくらい、追いつく気力をなくさせるくらいのダントツの1位を目指す。その先端が、ITである。私たちの会社はITの活用にはたいへん貪欲で、世界中の技術動向に、常に目を凝らしている。
最近の一例を挙げる。マラソン大会では、ゼッケンの下に、2次元バーコードの一種を印刷してある。写真を撮ると、瞬時に、ゼッケン番号が認識できるようになっている。大きなイベントでは、撮った写真が誰か、一致させるのがたいへんな作業になっている。それで、普通は、写真のデータをミャンマーなどの会社に委託し、人力で、走者の顔と写真を一致させていることが多い。かつては、東京マラソンでも同じだった。
しかし、ここでも世界の技術は進んでいた。イスラエルのベンチャーが、写真で瞬時に2次元バーコードを認識し、フェースブックにアップロードするソフトを開発していた。撮ってからアップロードまで、5秒から数十秒しかかからない。ランナーズでは、この技術を使い、写真をSNS等にアップロードし、ランナーが今どこを走っているかについてもリアルタイムにわかるようなサービスを、追加料金なしでやろうとしている。
(2) オーナーシップは「誇り」、ランナーの代表、そして待遇
人材も大事にしてきた。うちの会社では、できるだけランナーを採用する。しかし、不器用な人間が多い。苦労もするが、我々の役割は、日本のランニングを支えることだということを意識している。
趣味を仕事にしているともいえるが、情熱や熱意だけでは、ビジネスは短期間で終わってしまう。ビジネスは、長く続けることが大事である。長続きするには、人材にはそれなりの待遇が必要である。ランナーズでは、その時々でベストの待遇を目指してきた。
現在、社員の平均年齢は37~38歳で、年俸は平均600万円である。中には、30代で1,000万円を超える社員もいる。これから、平均で700万円に近付けたいと考えている。
(3) 系列にくみしない、独立独歩、全方位外交
会社が存続してきた3番目の理由は、独立独歩でやってきたということだ。力を持つ。どこであろうと、系列には入らない。新聞、放送、メーカーなど、いろいろ一緒に仕事をやってきたが、特定の会社や組織と特別な利害関係を持つことは、会社として禁止している。
(4) 分相応
4番目は「分相応」ということだ。自らを知ること、これがいちばん大事だ。会社を経営する、しないに関係なく、自分にできることと、できないこととを、正しく知る。何をするにもこれが、幸せになることの大前提である。何か問題がある人は、ここが崩れている。
(5) スタンダードづくり
ランナーズには、「ランニング界のスタンダードを作ってきた」という自負がある。目的意識もある。スタンダードづくりのため、いろいろな賞や表彰制度を作った。
「ランナーズ賞」というのは、もう40回近く続いている。
「大会百撰」という企画も、定着した。これは、参加したランナーの投票で、全国の優れたマラソン大会を選ぶものだ。特に地方の大会では、百撰に載るかどうかが、主催者にとってたいへん重要になっている。
百撰の選出には、大会のレベルを満たすためのいろいろな基準がある。例えば、距離表示を1キロごとに出しているか、給水はどうか、というような具体的なチェック項目が並んでいる。各チェック項目で「Very good」の評価が増えると、自然に大会のクオリティが上がるように設計してある。
「マラソンランキング」も発表している。マラソン大会のデータを元に、1歳刻みで、年齢ごとに100位までを発表し、『ランナーズ』誌上で表彰している。
5 次の10年、20年、何をしようとしているか
(1) これからどのような時代が来るか
消費者と既存の会社との関係は、根底から変わろうとしている。世の中は1年でも変わる。10年も経てば、こんなに変わるのかというくらい変わる。
これからどのような時代が来るか、見極めなければいけない。次の時代には、消費者志向の強まり、IT技術の進化、健康ニーズの高まり、国際化の進展などがますます進むだろう。企業としても、次の時代に対応する新しい事業モデルが必要になっている。
(2) 新しい事業モデル
① パーソナルニーズの実現
これからは、ますます消費者志向が強まるだろう。世の中は、パーソナルニーズを実現する方向に動いている。支持を得ている企業は、それを実現しているところだ。
4大メディアが凋落しているのは、パーソナルニーズに対応できないからである。
かつては、スタンダードなものをあてがわれることで、人々は満足していた。しかし、今の時代、同じメッセージ、同じ価値を、一定に人に一斉に発信する時代は、社会的には終わっている。
雑誌といえども、万単位を相手にしている。ネットは、パーソナルニーズに対応したメディアだ。世の中はドラスティックに変わる。今、人間は2,000年前に帰りつつある。物物交換的な、原始社会のニーズに応えようとする動きが、世界的に進みつつあるように思う。
私は、パーソナルニーズは、C2Cに帰着すると考えている。配布資料にもあるが、AirbnbやUBERのようなサービスが台頭している。
東京マラソンに当選した人たちは、今は講習会に参加したり、雑誌を読んだりして準備していた。今は、ランニングを教えてもらいたい人と、教えたい人とをマッチングするシステムを構想している。「ランニングマイスター制度」を作り、トレーニングを勉強した人が、コーチになって教えられるような資格制度を作っている。
② IT技術の進化
IT技術も、さらに進化し、価格も下がるだろう。
たとえば、販促では、チラシだと関係ないエリアにも配られてしまう。それなら、ネットで「自分の店から半径20km以内に住み、去年ランニング大会に2回出たサラリーマン」というような条件で検索し、ヒットした人たちに割引券付きのクーポンを出すというような販促の方が、ずっと効果的だろう。
米国には、スポーツデータを専門に扱う企業もある。最近、訪問して話を聞いた。その会社では、イベント切符をいつ売ればいちばんいいか、どこでどういう販促をするか、フェースブックを使えばどれくらい売り上げが上がるかなど、さまざまな要素でアルゴリズムを作る。フェースブックでは35円かかった、TVではいくらだった、というように、メディアごとの単価も出るので、どの媒体が有効かもわかる。
その会社では、DMのリターンについても、マッピングされていた。時間帯で見ると、土曜日の午前中などはリターン率が高い。リターン率によって、メールの単価を変えるということも可能になっていた。
いつ、どの人に、どのタイミングで、どんなメッセージを出したらいいか、そこまでITでわかりつつある。
メール代は、1通5~10円である。こうなると、不特定多数にチラシを撒くのは、費用対効果という面でどうか。
参加者の大会への流入経路も、グラフ化できる。GeoQlikというソフトを使い、グーグルマップと同じように、グラフの線をずっと遡っていくと、最後は、パーソナルデータまでたどり着く。
③ 健康志向ニーズ
健康志向ニーズや国際化も、これからの時代にはもっと進む。
スポーツビジネスは遅れた分野なので、もっと若い人に入っていただき、いろいろチャレンジしてほしいと願っている。
質疑応答
(小川教授)さっき、マラソンランニングの話が出たが、僕は63歳で388位だった。
(質問)最近、地域活性化のために、マラソン大会を開催する地方が多い。そうしたマラソンで、成功する要因は何か?
(橋本氏)スイカ、モモなどの食物や、地元の名産品を付けると、人が集まりやすい。「富里スイカロードレース大会」(千葉県)など、1万数千人来るが、行政は1円もお金を使っていない。もっと大きな、宿泊を伴うマラソン大会なら、経済効果は億単位になるだろう。
参加者には定員があるが、応援には上限はない。応援者は、キャパさえあれば、いくらでも集められる。地域の経済効果は、参加者だけでなく、応援者も入れてカウントすべきだ。今、我々もそのように動き始めている。
(小川教授)お土産やお持ち帰りは、結構大きいと思う。
(質問)私もランナーだが、ランニングブームの背景は何だと思うか?
(橋本氏)トレンドは健康だ。今後も、それは変わらない。日本人のマラソン人口は、フルマラソンで23万人、ハーフマラソンなら400万人に上る。人口比なら、あと3倍は伸びる余地がある。また、ランニングが向かない人たちもいるので、我々はウォーキングも含めたプロジェクトを始めようとしている。
ランニングに限らず、イベントを増やしていくのがポイントではないか。運動が体にいいことはわかっていても、まだまだ始めるきっかけが少ない。
(質問)行政の規制がかかるようなケースは、なかったか?あったとしたら、どのように調整されたか?
(橋本氏)昨年、大会主催者が勝手にやめてしまい、参加者はお金を払ったのに、大会そのものがなくなってしまったことがあった。イベント自体は誰でも作れるので、こういうケースを放置すると、問題になる可能性もある。一方で、イベントが増え、ランニングで食べていけるといういい面もある。
ただ、自治体主導では限界があると思う。民間が主体になって回すようになっていかなければ、本物にはならない。
(質問)マラソン雑誌を発売した後、競合誌が出てきた。にもかかわらず、なぜ生き残ることができたのか?
(橋本氏)情熱の差だと思う。競合誌が出てきたとき、ある人に相談に行った。すると、「君たちは、絶対に負けない」と言われた。なぜかというと、「君らは、寝ても覚めても、夢の中でもマラソンのことを考えている。向こうはサラリーマンで、5時には帰る。だから大丈夫だ」ということだった。確かに、初期は、情熱の差で生き残ったと思う。
(質問)走っているランナーを撮影して、フェースブックにアップロードするというお話だった。しかし、走っていることを知られたくない人たちもいると思う。その人たちの写真も、アップされるのか?
(橋本氏)以前はゼッケンに年齢欄があり、抗議されて、止めたことがあった。プログラムに名前を書かないでくれ、という要望もある。個人情報の扱いについては、今は、参加条項に詳細に記載されるようになっている。条項を見て、参加者の方で、条件に合った大会を選んでいただくという感じになっている。
(質問)応援する側には、定員はないというお話だった。しかし、人数が増えれば、運営にも人が要る。ボランティアなどのスタッフは、どういう態勢になっているのか?
(橋本氏)マラソン大会は、東京などの大きな大会と、地方との二極化の傾向になっている。ボランティアもブランド化しており、人気大会に集中しがちで、なかでも給水が人気である。それ以外の仕事では集まりにくい。これだけは、いかんともしがたい。
(小川教授)私が大学で教師を始めたのと、橋本さんがランナーズの仕事を始められた時期は、ほぼ同じだ。橋本さんは、ずっと最先端を走ってこられ、しかも5年前の講演と比べて、ビジネスがさらに進化している。大きな刺激を受けた。
(了)