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第22回小川町経営風土記「そして、大躍進が始まった!」『チェーンストアエイジ』2009年8月1・15日号
(前号までのあらすじ)
ヤオコーとしまむらは、昭和50年から共同出店を始めていた。長瀬店(昭和50年)と児玉店(昭和52年)は、ヤオコーが開発してしまむらがテナントとして入店する形式をとっていた。大店法の施行で出店規制が強化される中、両社は成長への道を模索していた。
昭和55年11月、埼玉県大宮市、藤原秀次郎宅
拝啓  藤原秀次郎様
「椎茸の香りをのせて友のもとへ」
いつもお世話になっております。
趣味で育てた椎茸です。楢の原木に椎茸の菌を植えつけて三年目に出てきました。
少量ですが、ご笑味いただけたら幸いです。
今後とも、ご指導よろしくお願いいたします。
昭和55年秋  敬具
犬竹一浩

郵便小包の封を開けると、新鮮な椎茸の匂いが部屋の中に広がった。肉厚の立派な椎茸が、箱の中にぎっしりと詰まっている。藤原に宛てた小包には、手紙が同封されていた。和紙の便箋に流れるような筆の文字は、ヤオコーの犬竹一浩開発部長(当時、38歳)からのメッセージだった。「ご笑味」と書いてあるところが、洒落ものの犬竹らしいと藤原は思った。
藤原秀次郎(40歳)は、そのころには、総務と財務の仕事のほかに、店舗開発も担当するようになっていた。昭和55年3月に開店した「しまむら高萩店」(24号店)は、これまでにないタイプの立地だったが、思いのほか順調に業績を伸ばしていた。ヤオコーと共同で出店した四番目の高麗川店(31号店、昭和56年3月)まで、しまむらは年間10店舗のペースで出店を進めていた。
ヤオコー高萩店(10号店)の隣接地を、藤原に紹介してくれたのは、犬竹一浩だった。高萩店(360坪)は、犬竹が店舗開発を担当するようになって最初に手がけた物件だった。たまたまの縁があって、自らが開発したヤオコー高萩店の隣接地を、しまむらの藤原に紹介することになった。
「土地の手当てに協力してくれた犬竹さんに、こちらのほうからお礼をしなければ」。そう思っていた矢先に、犬竹から椎茸の小包が藤原の自宅に届けられたのである。


迷った郊外生活道沿い立地
昭和53年6月、藤原と犬竹は、ヤオコー高萩店(埼玉県日高市)の出店予定地の前に立っていた。高萩店の開店日が、2ヶ月先の8月4日に迫っていた。敷地面積は約1100坪、建物の延べ床面積は360坪。躯体工事が終わって、建物の形が見えはじめていた。隣接地に、犬竹は駐車場用の土地をさらに430坪ほど確保してあった。
近くに、競合になりそうな食品スーパーはまったくない。1キロ圏内に住宅がほとんど建っていなかったが、1キロ少し離れた場所に大きな団地があった。車での来店が主になるだろうから、立地に問題はないと犬竹は考えていた。
武蔵高萩で、犬竹家は代々、特定郵便局の局長を務めていた。土地勘もあったので、自分が探してきた場所には自信があった。藤原に出店を勧めた場所は、ヤオコーの駐車場に隣接している土地だった。
藤原は、国道407号線を車が流れていく様子をじっと見つめていた。
「犬竹さん、うちの出店場所は、街からやってくる車にはインコース側になるね」。
店前の交差点で、道が緩やかにカーブしている。インコース側に店があると視認性が低くなる。店舗がアウトコース側にあれば、遠くからでも店の様子がよく見える。近くまで来て店の存在にやっと気がつくインコース側は、店を出す場所としては不利である。
「藤原さんにしては、めずらしいね」。
迷っている藤原の姿を見るのは、犬竹にとってはじめてのことだった。
頭脳が明晰で、何でもできる即断即決の人。藤原に対する犬竹の人物評価だった。商品がわかる、財務にも明るい、開発もできる。その上、コンピュータの知識もある。しまむらが会計情報システムを導入したとき、藤原は自らがコンピュータ言語のコボルを駆使して、実際にプログラムを組んでいる。
「3日間だけ、時間をもらえませんか?」
これまで出店の経験がない立地なので、藤原は逡巡していた。交差点の角に信号が設置されている。車の出入りがむずかしいのも、藤原が即決できない理由であった。昭和53年ごろまで、しまむらは駅前の繁盛店などを中心に出店を進めてきた。大店法の規制にかからない150坪タイプの店を、郊外の生活道路沿いに作るのは、はじめての試みだった。

共同出店は昭和60年が最後
2ヵ月後、ヤオコー高萩店が開店した。初日の売上げは1100万円を記録した。犬竹は緊張感から解放された。6号店(岡部)から9号店(桜ヶ丘)まで、ヤオコーは赤字の店がしばらく続いていた。久しぶりで、反転の手応えを感じることができた。
高萩店(10号店)の成功を境に、埼玉県の北部で力を蓄えたヤオコーは、11号店(高麗川)、12号店(所沢北野店)、13号店(一本松店)と、県南部に進出していく。地元にスーパーがない立地で、人口が3万人程度の町への出店によりヤオコーは業績を伸ばしていった。昭和57年時点で13店舗、売上165億円を達成するまで、会社の業績は回復してきていた。
 一方のしまむらは、翌年3月に出店した高萩店(150坪、その後に250坪に増床)が大当たりした。大店法の網の目にかからない「フリースタンディング立地」のはじまりである。店舗を標準化し、物流システムを整えたしまむらは、群馬、茨城、栃木、千葉、静岡へと店舗網を広げていくことになる。
ちなみに、ヤオコーとしまむらが共同で店を出したのは、昭和60年の川島店が最後である。共同出店がむずかしくなった理由は、主として商圏特性に求められる。しまむら(衣料品)の商圏は広いが、ヤオコー(食品)の商圏は相対的に狭い。
出店のスピートにも違いがあった。大店法の影響で、昭和53年以降は、出店に厳しい規制かけられるようになってきた。地元の商店街などから、食品スーパーの出店には反対勢力が多い。ところが、しまむらのような衣料品スーパーに対して、その圧力はさほどでもなかった。
食品スーパーの出店には、ある程度の大きさの売り場面積が必要とされる。350坪を切ってしまうと、中途半端な品揃えになってしまうからである。地元との交渉で、出店のスピードが遅れがちになる食品スーパーと、フリースタンディング立地で店数をどんどん増やしていきたいしまむらとでは、出店に関してスピード感があわなくなってきていた。  

40代の若き社長が両社を牽引
 昭和56年3月、しまむらの30号店目にあたる「伊刈店」がオープンした。島村恒俊オーナーにとっては、昭和32年にチェーン化をめざしたときからの目標が達成されたことになる。30店舗の達成記念に、恒俊オーナーは、功労者の藤原秀次郎と廣瀬義征に金時計を贈っている。島村と藤原はいまでも、記念のシチズンEXCEEDを腕にしている。
 昭和57年3月、ヤオコーの初代社長、川野清三が逝去した。享年78歳であった。昭和32年7月、清三が八百幸商店を有限会社にしてから25年が経過していた。
3年後の昭和60年に、ヤオコーでは川野幸夫社長が誕生する。同じ年に、しまむらでは、藤原秀次郎が社長に就任する。いずれも40代の若い社長であった。
翌年、ヤオコーは、本部を小川町から川越駅前に移転した。しまむらも昭和57年に、東松山から大宮市に本社を移転していた。そこから、両社の大躍進がはじまることになる。(完)
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